京の七不思議 その9『堀川通の七不思議』

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京都市内最大の幹線道路

京都市街のほぼ真ん中辺りを南北に走る通りが「堀川通(ほりかわどおり)」。北は鴨川堤に始まる賀茂街道から、南はJR京都駅のある八条通までの約8㎞の市内最大の幹線道路です。

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堀川通は平安時代で言えば、平安京の左京を南北に通る“堀川小路”にあたり、その名の通り、堀川通には堀川という川が流れています。現在はそのほとんどが暗渠(あんきょ:川に覆いをして、外から見えないようになっている水路)となり、親水公園として整備され、川の様相を見ることはできませんが、かつては京の運河として、木材の運搬に利用された主要な川のひとつだったそうです。

当時はその堀川を挟んで、“東堀川通”と“西堀川通”の2つの通りがありました。堀川の幅が4丈(約12m)、通りの幅がそれぞれ2丈(約6m)で、堀川小路のトータル幅は8丈(約24m)となり、一部の文献には“大路”とされている場合があるようですが、それは間違いで、あくまで“小路”なのです。

京都市内の主要道路のひとつで、今も京都の伝統的な町屋建築が多く残されている堀川通ですが、歴史がある通りだけに、やはり、ここにも不思議がありました。しかも、7つではなく、10個も! 今回は「堀川通の七不思議」の話をしましょう。

堀川通の七不思議とは!?

堀川通の七不思議:その1「紫式部の墓(むらさきしきぶのはか)」

紫式部と言えば、光源氏が繰り広げる大恋愛物語『源氏物語』の作者。堀川北大路の交差点から堀川通を南に100mほど下がった通りの西側に「紫式部墓所」と記された石碑があり、その横の参道を奥に進んだところに、紫式部のお墓があります。

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この辺りの地名は“紫野(むらさきの)”と呼ばれていますが、それはこの地が紫草という名の紫色の草花が生える野原であったことから名付けられたそうです。紫野は『源氏物語』にも登場し、また、紫式部の“紫”は、この紫野に由来しているとも言われています。そういったことで、式部と紫野の縁は深く、ここで余生を過ごしたことから、紫野にお墓が建てられたようです。ところが、この式部のお墓には、不可解なことがあるのです。それは紫式部のお墓と同じ敷地に、“小野篁(おののたかむら)”のお墓があることです。

小野篁は小野妹子の子孫にあたり、あの世とこの世を行き来して、閻魔大王のもとで裁判の手伝いをしていたという伝説のある人物です。その篁のお墓が、どうして式部のお墓と仲良く並んであるのでしょうか…。同じ敷地にあるということで、篁は式部の旦那だったのでは?と思われるかもしれませんが、篁は式部より170~180年前に生まれていて、生きた時代がまったく違いますので、篁が式部の旦那だったということはまず、あり得ません。

これには諸説あるようで、「篁に憧れていた式部が、篁のお墓の隣りに葬られることを望んだ」という説や「『源氏物語』で煩悩の世界を描いたことで地獄に落ちた式部を、閻魔大王の側近であった篁が助けたため」などといった説があります。ただ、説としては面白いですが、どの説も、話を面白くするための作り話のようで、信憑性に欠けますよね。

平安時代に行われた埋葬は、そのほとんどが風葬であったことから、式部も篁も、もしかすると墓石が残るような葬られ方はされていないかもしれません。そう考えると、ここにあるお墓に、本当に式部と篁が眠っているのかどうかも、ちょっと疑いたくなってきますね。

紫式部の墓:京都市北区堀川北大路通下ル西、島津製作所・紫野工場隣

堀川通の七不思議:その2「登天石(とうてんせき):水火天満宮」

堀川通鞍馬口を50mほど下がった東側にある児童公園の右手に「水火天満宮(すいかてんまんぐう)」という神社があります。この神社はその名が示すとおり、ご祭神は菅原道真公で、水難火難除けにご利益があるとされていますが、その境内の片隅に一抱えほどある大きさの、奇妙な形をした石が祀られています。この石は「登天石(とうてんせき)」と呼ばれており、不遇の死を遂げた菅原道真公にまつわる不思議なエピソードが残されているのです。

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道真公の死後、京の都では大雨が降り、雷が落ちるといった天変が相次ぎ、「これは、太宰府で亡くなった道真公の怨みに違いない」と、都の人々は大騒ぎになっていました。それを知った、時の天皇である醍醐天皇は道真公の霊を鎮めるために、比叡山の延暦寺から、道真公の師であった高僧・法性坊尊意僧正(ほうせいぼうそんいそうじょう)を呼びました。

法性坊は慌てて山を下り、宮中に急いでいました。ちょうど鴨川に差しかかった時のことです。急に川の水量が増し、あっという間に水は土手を越えて、町に溢れ出していきました。「これも道真の仕業か!」と、法性坊は手に持った数珠を一揉みし、川に向かって祈祷しました。すると、川の水は見る見るうちに減り、ついにはふたつに分かれ、その間に石の上に立つ道真公の姿が現れたのです。師の姿を見た道真公は懐かしく思ったのか、顔に笑みを浮かべ、そのまま光の尾を引いて、雷雲とともに空へ消えていきました。

その後、道真公のことを不憫に思った法性坊は、道真公が立っていた石を持ち帰り、愛弟子の霊を弔ったそうです。その石が、現在、境内に祀られている「登天石」だと言われているのです。

旧約聖書に、モーゼが海を2つに割って、ユダヤの民を渡らせるエピソードがありますが、川の水が2つに割れるというのは、モーゼの時のような迫力はないにしろ、ちょうどあんな感じだったのでしょうか。そんなパワーを持っているとは、さすがに法性坊は道真公の師だけのことはありますよね。

(尚、登天石の詳細は「登天石~道真公の霊が立った石」を御覧下さい。)

水火天満宮:京都市上京区堀川通上御霊前上ル扇町722-10 TEL : 075-451-5057

堀川通の七不思議:その3「百々橋の礎石(とどのはし)」

京都の各町の沿革や名所旧跡の所在と由来が記録された『京都坊目誌』(大正5年刊行)に「百々橋(とどのはし)」と呼ばれた橋のことが書かれています。

「今昔物語に百々の辻子あれば平安京中期の開通ならん。小川の流れを架す。石橋なり。長さ四間一分幅二間二分。都下の名橋なり」 更に「この橋、幽雅にして野趣あり。街道を往復する者、ここに休憩す」

このように書かれているように百々橋は古来より名橋とされたいたようですが、この橋は人形寺で知られる宝鏡寺の東にあった小川(こかわ)と呼ばれる川に架けられていたようです。百々橋という風変わりな名称は、応仁の乱以前の京の風景が描かれた江戸時代の『中昔京師地図』にこの橋があった辺りが“百々ノ辻(とどのつじ)”と記載されていることに由来しているそうです。

1467(応仁1)年から始まった応仁の乱の際に、細川勝元率いる東軍と山名宗全率いる西軍の両軍が、この百々橋を隔てて数度にわたり合戦が行われたと言われています。長さ8mにも満たない小さな橋ですが、歴史の一コマが刻まれた重要な橋だったのです。

で、この百々橋のどこが不思議かと言うと、百々橋が架けられていた小川が1963(昭和38)年に埋め立てられ、百々橋も解体されてしまった際に、橋脚を支える4基の礎石の内、1基だけ、ポツンと遺されていることが不思議だと言われる所以なのだそうです。この礎石は遺構として遺されているわけですから、何ら不思議ではないと思いますが、その由来を知らずに、縦横80cm、高さ70cmの立方体の上部中央に直径48cmの丸い穴が穿たれている物体を見れば、確かに不思議なモノに見えるかもしれませんね。

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それにしても、よくよく考えると、やはり何が不思議なのか、もうひとつピンと来ません。何が不思議なのかがわからないことが、不思議なことなのでしょうか…。因みに、解体された百々橋は、その後、洛西ニュータウンにある「洛西竹林公園」に移され、復元されています。

百々橋の礎石:京都市上京区寺之内通小川

堀川通の七不思議:その4「晴明井(せいめいのいど):晴明神社」

不思議な術を使ったとされる平安時代の陰陽師(おんみょうじ)、安倍晴明をご祭神とする晴明神社。その晴明神社の二の鳥居をくぐったすぐ右に不思議な形をした井戸があります。これが「晴明井(せいめいいど)」と呼ばれる井戸で、安倍晴明が念力を使って、水を湧き出させたという伝説がある井戸です。

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陰陽道において魔除けとされる星のマーク「五芒星(ごぼうせい)」が井戸を蓋するかのように載せられていますが、その一端から井戸水が湧き出るようになっています。その水が湧き出る出口は、その年の縁起の良い方向、いわゆる恵方に向けられているそうです。恵方は毎年変わりますので、立春の日にその年の恵方に合わせて、水の出口の向きを変えるそうです。

京都の地下には豊かで良質な水脈があり、そのために京都市内には多くの井戸があります。井戸は京都の神社にもあって、それらのほとんどが名水、霊水とされています。この晴明井の水も吉祥水(きっしょうすい)と呼ばれる名水で、病気平癒の信仰があるそうです。因みに、茶聖と呼ばれた千利休も、この晴明井から湧き出た水を使ってお茶を点てていたそうですよ。

現在の晴明井は以前、陰陽師ブームがあった頃に造り直されたものなので、真新しくて、何となくウソっぽいですが、造り直される前の晴明井は、伝説に相応しい味わいのある井戸でした。個人的には、元もままの井戸であって欲しかったと今も思っています。

晴明神社:京都市上京区堀川通一条上ル晴明町806 TEL : 075-441-6460

堀川通の七不思議:その5「五芒星の額束(ごぼうせいのがくつか):晴明神社」

晴明神社にはもうひとつ、堀川通の七不思議に数えられる不思議がありました。それは、晴明神社の入り口である一の鳥居の額束です。額束とは、鳥居の真ん中にある、神社名などが書かれている額のことですが、一の鳥居の額束には神社の名前ではなく、五芒星が描かれているのです。額束には、その神社の名前か“〇〇大明神”と書かれているのが普通なのですが、このように図形が描かれていることは、とても珍しいことなのです。

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この五芒星は「晴明桔梗印(せいめいききょうのしるし)」と呼ばれる晴明神社の神紋です。陰陽道では魔除けの呪符とされていて、木・火・土・金・水の5つの元素である五行を形取ったものなのだそうです。五芒星はタロットカードなどに見られて、どちらかというと西洋的なイメージが強いだけに、純和風の神社の鳥居に五芒星があると、違和感があるというか、やはり不思議に感じますね。

晴明神社の二の鳥居の額束には“晴明神社”と書かれているので、入り口となる一の鳥居の額束にある五芒星は神紋というよりは、魔除けの意味で描かれているのではないでしょうか。

(尚、晴明神社の詳細は「晴明神社~安倍晴明の不思議なチカラに出会える神社」をご覧下さい。)

晴明神社:京都市上京区堀川通一条上ル晴明町806 TEL : 075-441-6460

堀川通の七不思議:その6「一条戻橋(いちじょうもどりばし)」

現在の「一条戻橋」は1995(平成7)年に架け直された、近代的な、悪く言えば、味のない小さな橋ですが、元はと言えば、794(延暦13)年の平安遷都とともに架けられた、歴史ある橋なのです。

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一条戻橋は、元々は「土御門橋(つちみかどばし)」という名が付いていましたが、ある出来事があってから「戻橋(もどりばし)」と呼ばれるようになりました。その出来事とは…。

天台宗の僧、浄蔵が熊野で修行を行っていた時、父が危篤だという知らせを受けて、急いで京へ駆けつけました。しかし、父の死に目には間に合わず、浄蔵が土御門橋に着いた時は、父の葬列が橋の上を通過している最中でした。浄蔵は橋の上で父の棺にすがりつき、「父の魂を戻して欲しい」と一心に読経したところ、父は一時的に息を吹き返し、父との最後の対面を果たしたのでした。

この出来事があって以来、土御門橋は死人がこの世に戻る橋とされ、「戻橋(もどりばし)」と呼ばれるようになったと言われています。

それからは、源頼光の四天王のひとり、渡辺綱が戻橋のたもとで、鬼女に出会い、その片腕を斬り落としたとか、安倍晴明が式神を橋の下にある石棺に閉じ込めたとか、千利休の首が橋に晒されたなどという話が伝わり、近年においては、橋に命が戻るという伝説があることから、戦時中、出征する兵士が橋を渡って、無事に帰って来れるようにと祈ったとか、戻ることを嫌って、婚礼の行列はこの橋は絶対に渡ってはいけないなどという伝説・伝承が数多く生まれました。

かつての堀川は、内裏の東側の外堀の役割だったとされ、一条通は都の鬼門とされる北東角に当たったために、霊的な物語が生まれやすかったのでしょうね。一条戻橋はわずか8mほどの短い橋ですが、不思議なことがいろいろとあった橋なのです。

一条戻橋:京都市上京区堀川下之町

(尚、一条戻橋の詳細は、京都怪異譚 その5「一条戻り橋~数々の逸話が伝わる、不思議な橋」をご覧下さい。)

堀川通の七不思議:その7「小町草紙洗いの水(こまちそうしあらいのみず)」

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場所が見つけにくいのですが、一条戻橋から東に80mほどいったところに「小野小町雙紙洗水遺跡・小野通」と記された石碑があります。平安時代前期の頃の女流歌人、小野小町は絶世の美女として数々の逸話が残っていますが、この石碑がある辺りにも、小町が草紙(和文で記された書物)を洗うために使ったという伝説にまつわる井戸がありました。この井戸の由来は、謡曲『草紙洗小町』にあります。

小野小町の才色を日頃から妬んでいた、大友(大伴)黒主(おおとものくろぬし)は、小町を落とし入れようと画策し、歌合わせの前夜に小町の屋敷に忍び込みました。そして、そこで、小町が詠う「蒔かなくに何を種として浮草の  波のうねうね生いしげるらん」を盗み聞き、それを草紙に書き込みました。

歌合わせの当日、居合わせる歌人たちの前で大友は小町に草紙を突きつけ、小町の歌は盗作だと騒ぎ出したのです。もちろん、小町には覚えのないこと。そこで、一計を案じた小町は、白銀のたらいに水を入れ、草紙をその水に浸して洗いだしたのです。すると、後から書き入れた部分、つまり、大友が秘かに書き込んだ部分がすべて洗い流され、消えてしまいました。小町は身の潔白が証明され、逆に大友は歌人たちから非難されたのでした。

この時に小町が使った水が、ここにあったとされる井戸の水です。この水は京の名水のひとつとされる「清和水」で、この出来事があって以来、“草紙洗水(そうしあらいのみず)”と呼ばれるようになったと言われています。何やらマジックのようなことをした小町ですが、大伴は目の前で自分で書いた文字が消えていくのを見て、さぞかし、驚き慌てたことでしょうね。

大友黒主は六歌仙のひとりとして知られる歌人で、“志賀の黒主”という異名を持つ、優れた歌人でした。実際には、小町を落とし入れたという事実はなく、この謡曲は、小野小町を神秘化するために作られたもののようです。話の中とは言え、冤罪を着せられたのは大友黒主の方だったわけですね。ちょっと可哀想な気が…。因みに、祇園祭の山鉾「黒主山」は、この大友黒主のことです。

小町草紙洗いの水:京都市上京区東堀川通一条東入ル

堀川通の七不思議:その8「佐女牛井(さめがい)」

京都には“京都三名水”と呼ばれる名水があり、そのうちのひとつが、この「佐女牛井(さめがい:醒ヶ井とも書きます)」の水で、しかも、この佐女牛井の水は三名水の中で天下一の名水とされる、名水中の名水なのです。因みに、あと2つの名水とは、京都御苑の旧一条邸の屋敷跡にある「縣井(あがたい)」と中京区にある梨木神社(なしのきじんじゃ)の境内にある「染井(そめい)」です。

染井は今も元の井戸が残っていますが、佐女牛井と縣井は枯れてしまいました。ところが、近年、佐女牛井は別の場所(醒ヶ井四条、元は醒ヶ井六条)に同じ水脈で掘り直され、縣井も復活しています。

佐女牛井は平安時代、五条と六条の間にあった源頼義(みなもとのよりよし)の六条堀川邸の敷地内にあった井戸です。六条堀川邸は1159(平治1)年の平治の乱で焼失し、その後、源義経(みなもとのよしつね)によって、再興されましたが、再び、1185(文治1)年に土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)という武将(僧侶でもあった)によって焼き払われました。

ところが、この佐女牛井だけは、無事に残り、その後も佐女牛井の水は、侘び茶の創始者とされる、室町時代の茶人、村田珠光(むらたじゅこう)や珠光の孫弟子の武野紹鴎(たけのじょうおう)、そして、安土桃山時代の茶人、千利休といった名だたる茶人たちが好んで使ったと言われています。

ところが、それからも、戦乱や火災により、幾度も荒廃と再興を繰り返し、1945(昭和20)年に、大戦の空襲に備えた堀川通の拡張工事によって撤去され、ついに佐女牛井はこの世から完全に消滅してしまったのです。

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現在は、佐女牛井があったことを示す石碑がポツンと立っているだけで、その当時を思い起こさせるものは何も残っていません。ただ、佐女牛井から少し離れた場所にある枯れた井戸を掘り直すと、水が湧き出てきたそうで、その水が佐女牛井の水脈と同じであることから、その井戸は“醒ヶ井”と名付けられています。京都の名水はこれからも生き続けることでしょう。

佐女牛井:京都市下京区醒ヶ井六条堀川五条下ル

堀川通の七不思議:その9「梅ヶ枝の手水鉢(うめがえのちょうずばち)」

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西堀川通と木津屋橋通の交差点の北東角に、見栄えのしない不格好な長方形の石が置かれています。この石が「梅が枝の手水鉢」です。この手水鉢を題材にした歌が明治から大正にかけて巷で流行ったそうです。

♪梅ヶ枝の手水鉢 叩いてお金が出るならば 若しもお金が出たときは その時や身請けをそれ頼む♪

これは、いわゆる俗謡というもので、妙な歌詞が当時はウケたのでしょうが、実はこの歌は「梅ヶ枝の手水鉢」の由来に基づいて作られた歌だったのです。

源氏の武将に梶原影季(かじわら かげすえ)という人物がいました。源平合戦の宇治川の先陣争いで佐々木高綱(ささき たかつな)に遅れを取った影季は頼朝の不興を買ってしまい、世を忍ぶ生活を強いられる事となってしまいました。生活に窮した影季は、頼朝から拝領していた鎧を質に入れて300両を借り受け、妻の千鳥は“梅ヶ枝”という名で、遊郭に入るまで身を落としました。

それから暫くして、一ノ谷で合戦が行われることになり、それを知った影季は出陣を望みましたが、肝心の鎧は質に入ったまま。買い戻そうにもそのお金がない。困り果てているときに、梅ヶ枝が手水鉢にお金の工面を祈り、必死になって手水鉢を叩いていると、不思議なことに小判が空からバラバラと降ってきたのです。結局、このお金で影季は無事、出陣することができたのでした。

この話は歌舞伎や文楽の有名な演目である『ひらがな盛衰記』の一節にもあるので、ご存知の方も多いかと思いますが、それにしても、普通ならば、願い事をするなら神仏に祈るところを、梅ヶ枝はどうして手水鉢に祈ったのでしょうか…。そこが知りたいところです。

梅ヶ枝の手水鉢:京都市下京区堀川通七条下ル西入ル

堀川通の七不思議:その10「芹根水(せりねのみず)」

堀川通の七不思議の最後に数えられる不思議は、茶人・文人に好まれたと言われる「芹根水(せりねのみず)」です。

芹根水は堀川の西岸のたもとから間断なく湧き出た水で、平安時代より霊水として知られていました。室町時代には、茶道の様式を最初に整理したとされている能阿弥が選んだ”茶の七名水(御手洗井・常磐井・佐女牛井・水薬師井・大通寺井・中川井・芹根井)”のひとつにも数えられている由緒ある水だったようです。

また、江戸時代には芹根水が湧き出口が、堀川と同じ水位にあったため、川の水が入らないようにと、洛中の名水の保存に力を注いでいた書家の松下烏石(まつしたうせき)が井筒を寄進し、烏石自筆の「芹根水」を刻んだ石標も立てられました。

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その後も芹根水が湧き出し続けていたようですが、残念なことに、1914(大正3)年の堀川の改修の際に、濁水が混入し、最終的には芹根水も枯れてしまいました。今は、烏石が立てた石標が残っているだけで、芹根水が湧き出ていた痕跡はどこにも見当たりません。

ところで、この芹根水が不思議とされている理由が、いまいち、よくわかりません。絶え間なく湧き出たことが不思議だとされる理由なのでしょうか…。でも、湧き続ける水なら他にもあるし……。不思議がないのに、不思議とされているとしたら、それこそ、不思議なことです。

芹根水:京都市下京区堀川通木津屋橋附近

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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