堀川通一条に、演歌のタイトルにもなった「一条戻り橋」という橋があります。京都市のほぼ中央を南北に流れる堀川に架かる、今の「一条戻り橋」は近代的な長さ8メートル程度の短い橋で、取り立てて特徴のない橋ですが、実はこの橋には数々の逸話が残された橋なのです。
今でこそ、市内の真ん中にありますが、平安の頃、東西に延びる一条通は平安京の北端に位置し、この橋があるところは都の外れだったのです。そして、この橋は都で死んだ人を、都の外にある墓地へ葬送するときに通る橋として使われていたのです。つまり、一条戻り橋はあの世ととこの世の境界だったわけです。もう、これだけで、この橋には何か曰くがありそうな気がしますよね。
一条戻り橋の由来とは?
「一条戻り橋」という名称は、ある不思議な出来事に由来していると言われています。平安中期の918(延喜18)年に漢学者(文章博士:もんじょうはかせ)であった三善清行(みよしのきよゆき)が亡くなり、その葬儀の列がこの橋を渡っているときのことです。
熊野で修行をしていた三善の息子が駆けつけて、棺にすがり、その場でお経を唱え始めたのです。すると、空はにわかに暗雲が立ち込め、雷鳴が響き渡たると、棺の蓋が突然、吹き飛ぶように開き、死んだはずの三善清行が息を吹き返したのです。そんな不思議な出来事があって以来、生き返った、すなわち、魂が戻ってきたということで、この橋を「戻り橋」と呼ぶようになったと言われています。
今も残る言い伝え
「一条戻り橋」には、その名前に因んだ言い伝えもいくつかあります。
例えば、婚礼の行列はこの橋を通ってはいけないという言い伝え。これは花嫁さんが出戻らないようにという意味があります。そして、霊柩車もこの橋を通ってはいけないという言い伝えがあります。個人を安らかにあの世へ送りたいという気持ちなのでしょう。また、“戻らないように”とは逆に“戻りたい”という意味で、戦時中、兵士が出征する前に敢えてこの橋を渡り、無事に戻ってこれるようにと願ったと言われています。このように迷信めいた言い伝えが多く残されていますが、この橋には血なまぐさい歴史もあるのです。
一条戻り橋で実際にあった残虐な出来事
戦国時代になると、一条戻り橋のたもとは、罪人のさらし場所になりました。そして、最も残虐な刑とされた「鋸引き(のこぎりびき)」がそこで行われたのです。
「鋸引き」とは、罪人の首から下を地中に埋めて、身動きできないようにし、通行人などが鋸で少しずつ罪人の首を切ってゆっくりと死に至らせるという当時の極刑です。首を切る鋸は敢えて切れ味の悪い竹で作られものだったされていますが、それを聞くだけでもゾッとします。「鋸引き」は、残酷すぎるという理由で江戸時代に入ると形式的なものになって、実際には行われなかったようです。
また、豊臣秀吉の時代に、24名のキリシタンの左耳を削ぐ「耳そぎの刑」が行われたり、秀吉に命じられて切腹した茶人・千利休の首がさらされたのも、この「一条戻り橋」だったのです。
このように伝説やおどろおどろしい出来事が多くあるのは、一条戻り橋のある場所が都の鬼門である北東角に当たるためなのかもしれません。そう言えば、陰陽師の安部晴明がこの地に住んだのも鬼門の守護のためだったとか…。
現在の一条戻り橋は1995年に架け替えられたもの(大正11年から平成7年まで実際に使われていた橋の欄干は、晴明神社に保存されています。)で、そんな伝説や出来事があったとは想像もできませんが、一条戻り橋は、長い歴史といくつもの逸話が伝わる、不思議な橋なのです。
一条戻り橋:京都市上京区堀川一条
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