鯉山 ~大人から子どもたちに語り継がれる昔話

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今も呉服問屋が並ぶ京都市中京区の室町通。その通りの六角通と蛸薬師に挟まれた一角に「鯉山町(こいやまちょう)」があります。この町は、日本三大祭のひとつである祇園祭の山鉾、「鯉山」で知られていますが、この鯉山町に暮らす人々には、ある昔話が受け継がれています。今回は室町六角の鯉山町に伝わる、今も地元の人たちが好んで口にする昔話について話をしましょう。

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祇園祭の山鉾は“動く美術館”

毎年、7月1日から7月31日までの1ヶ月間、様々な神事と行事が行われる祇園祭。そのクライマックスと言うべき行事が“山鉾巡行”です。17日の“前祭(まえまつり)”に23基の山鉾が、そして、24日の“後祭(あとまつり)”に10基の山鉾が四条通、河原町通、御池通を巡行します。

33基の山鉾はそれぞれ、友禅染やペルシャ絨毯、ベルギー製織物、ギリシャ神話を題材にしたタペストリーなどの様々な国の装飾品で飾られ、その絢爛豪華な様から「動く美術館」とも形容され、ユネスコの無形文化遺産にも登録されています。

鯉山の由来

鯉山町の「鯉山」も16世紀にベルギーのブリュッセル製作されたタペストリー(題材はホメロスの叙事詩「イーリアス」の中の「トロイア戦争物語」の一場面)で飾られた、美術品としても価値のあるものですが、その山の上には、滝を跳躍しながら登ろうとしている姿の木彫りの大きな鯉が置かれています。

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鯉山の由来は中国の故事『登竜門』に因んでいます。昔、黄河の上流にある霊山に“龍門(りゅうもん)”と呼ばれる峡谷がありました。そこは魚がそう簡単に登ることができないほど流れが激しいところだったのですが、そこを登りきれた魚には霊力が宿り、龍に変身すると言われていました。この伝説から、難関を突破して立身することを「登龍門(龍門に登る)」と言い、その言い伝えから、祇園祭の鯉山自体も出世開運を願ったものだとされています。

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今ではあまり見られなくなりましたが、江戸時代の頃から子供の成長と出世を願って立てた「鯉のぼり」も、この「登龍門」に因んだものなんだそうですよ。

ところで、龍門の滝を登る鯉の勇姿を表していると言われるこの木彫りの鯉は、江戸時代の名工・左甚五郎が手掛けた彫刻だとされていますが、この木彫りの鯉が作られるに至った経緯には、正直者の男と曲がったことが大嫌いな大家の、二人の人物が関わっているのです。

琵琶湖に落とした3枚の小判

現在の室町通六角下ル鯉山町に、バカがつくぐらい正直な独り身の男と、その男が住む長屋の大家さんが暮らしていました。大家さんは人の良い人物で、借家人の面倒もよくみていましたが、とにかく曲がったことは大嫌いという人でした。

ある日こと、大津で用事を済ませた大家は、京に戻るために琵琶湖の渡し船に乗ったとき、懐から手拭いを出そうとしたところ、そのはずみで、懐に入れていた受け取ったばかりの小判3枚を湖に落としてしまったのです。アッと思ったが、時はすでに遅し! 小判は暗い湖の底に沈んで行ってしまいました。その時、大家さんは「もともと、あの小判は自分に授からなかったものと思えば…」と、諦めて京に戻りました。

京に着いて間もなく、家の近所で長屋に住む正直者の男に出会った大家さんは、「つまらぬ目に遭ってねぇ…」と小判をうっかり琵琶湖に落としてしまった話をしました。

正直者の男が取った行動とは?

それから、数日後、正直者の男が、大津から行商に来た川魚屋の前を通ると、丸々太った大きな鯉が目に入りました。

「今夜は、鯉の洗いで一杯飲むか」

男はその鯉を買い求め、家に持ち帰って、早速、料理に取りかかりました。すると、驚いたことに、その鯉の腹の中から小判が3枚出てきたのです。その小判を見た途端、男は先日聞いた大家さんの話を思い出し、「もしかすると、大家さんが琵琶湖に落としたという小判はこれかもしれない…。持って行ってあげれば、きっと喜ぶにちがいない」

そんなことを考えずに、そのまま自分のものにすればいいものを、正直な男は小判を持って、大家さんの家へ向かいました。

男は大家さんに会うと、小判を差し出して、「先日、お聞きしたお話の小判は、もしかするとこれではありませんか?」と言うと、大家さんは「なるほど、これは確かに私が落とした小判に間違いない。ただ、その小判はお前さんがたまたま買った鯉の腹から出てきたもの。お前さんが買った鯉の中から何が出ようと、それはすべてお前さんのものじゃないか。だから、その小判はお前さんのものだ」と言って、小判を受け取ろうとしません。ところが、男は「買った鯉の腹の中から出たものであっても、あなたのものと知れている小判をこのまま、はい、そうですかと言って持って帰ることはできません」と譲りません。お互い、自分の言い分が正しいと言い張り、困り果てた2人はお役人に相談することにしました。

役人が出した名案

お役人は、双方の言い分を聞くと、2人とも私欲のない、美しい心の持ち主であることがわかり、いたく感心しました。そして、お役人はこの争いは美談として後世までも残すべきだとして、ひとつの提案をしたのです。それは、その小判で近所に住む左甚五郎に鯉を彫ってもらい、祇園祭の山にしたらどうかというものでした。2人はそれは名案だとして、早速、左甚五郎に依頼し、見事な鯉の彫刻が完成したのでした。

今も、鯉山町の大人たちは、祇園祭や地蔵盆の頃になると、町内の子どもたちにこの昔話を語り、「鯉山町は正直者が多いとこなんやで」と言うそうです。こういったいい話は忘られることなく、これからも後世に語り継いでいってもらいたいものですね。

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鯉山町:京都市中京区室町通六角下ル

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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