京都市の左京区一乗寺(いちじょうじ)。今、この地域には有名な史跡「詩仙堂」がありますが、この一乗寺という地名は、平安中期から南北朝にかけて、この地にあった天台宗の寺院、「一乗寺」に由来しています。
さて、この“一乗寺”と聞けば、何が思い浮かぶでしょうか…。まず、多くの方は「一乗寺下り松(いちじょうじ さがりまつ)」が思い浮かぶのではないでしょうか。
長年の間、植え継がれ、現在4代目の「下り松」は、古くから旅人の目印とされた松の木です。その下り松の側に1921(大正10)年に建てられた大きな石碑がありますが、その石碑には、“宮本 吉岡 決闘之地”という文字が記されています。
この下り松には、1604(慶長9)年、宮本武蔵が、将軍家の兵法指南役を務めた吉岡道場の一門数十人と決闘したという伝説が残されているのです。今回は、江戸初期に剣豪の名を轟かせた「宮本武蔵(みやもと むさし)」の話をしましょう。
決闘の回数は60回以上に及んだ!
その名を知らない人はいないのではないかと思うほど、宮本武蔵は有名な人物ですが、そのわりには武蔵がどのような生涯を生きたかを知るための記録は少なく、不明な点が多い人物です。晩年、兵法の書『五輪書(ごりんのしょ)』を書き、水墨画や書画にその才能を発揮しますが、それらからは武蔵の優れた精神性が感じ取られ、それが武蔵人気の要因となり、武蔵に関する様々な伝説やフィクションが生まれることとなるのです。
二刀流で知られる「二天一流兵法」の開祖、武蔵は、13歳という若さで最初の決闘に勝ち、30歳になるまでに60回以上にも及ぶ決闘を行い、その勝負は負け知らずでした。その中でも特に世に知られている決闘は、1612(慶長17)年に佐々木小次郎と勝負した「巌流島の決闘」ですが、史実によると、若き武蔵が決闘した相手は、姓名不詳の“岩流”という中年の男で、あっさりと勝負がついた地味な決闘だったようです。もしかすると、武蔵にとっては記憶にも残らない、つまらない決闘だったのかもしれませんね。
因みに“佐々木小次郎”という豪傑な人物は、その後の講談などの中で創作された人物で、昭和になってから、作家の吉川英治などのフィクションにより、美剣士化された架空の人物です。
武蔵にとって最も重要だった決闘とは?
武蔵にとって、生涯の決闘の中で、最も重要だったのが、「吉岡一門」との決闘だと言われています。その決闘の詳細は諸説あるようですが、一般的に伝わるところで言えば、決闘は3回、行われたようです。
弱冠21歳の武蔵が選んだ相手は吉岡道場。ところが、師範の清十郎が不在という肩透かしを食らった武蔵は、取り敢えず、道場で門弟たちをあっさりと倒し、清十郎に挑戦状を送り、五条大橋に決闘を伝える高札を揚げ、清十郎の返事を待っていました。すると、間もなく、清十郎から決闘を受けるという返事が…。
一撃で清十郎を倒した武蔵
最初の決闘は、1604(慶長9)年の春、東は船岡山、西は金閣寺、南は北野天満宮の間に挟まれた葬送の地・蓮台野(れんだいの)で行われました。
多くの門弟たちが見守る中、清十郎は早朝から武蔵を待っていました。しかし、約束の時刻が過ぎても武蔵は現れません。苛立つ清十郎が我慢の限界に来ていたその時、武蔵が何処に隠れていたのか突然、清十郎の目の前に現れたのです。虚を突かれた清十郎は、慌てて、「遅れるとは…、さては武蔵!臆したな!!」と刀を武蔵に向かって振り上げました。しかし、武蔵の動きが一瞬早く、武蔵の木刀が清十郎の腕の骨を砕き、清十郎はその場に倒れ込んでしまいました。
その様子に驚いた門弟たちが、駆け寄ってきたため、武蔵は勝利の余韻に浸る間もなく、その場から逃げるように早々に立ち去って行きました。
本当は清十郎との決闘は行われなかった!?
ところで、この最初の清十郎との決闘は、実際、行われたかどうかはわからないとも言われています。この時、武蔵と吉岡一門が対戦したことは事実のようですが、吉岡側の記録によると、そこには清十郎の名はなく、決闘の場所も、蓮台野ではなく、京都所司代の前となっています。しかも、武蔵は吉岡の門弟に打たれ、眉間から血を流したとあるのです。ただ、これはあくまでも吉岡側が書き残していることで、信憑性は怪しい…。しかし、武蔵が晩年に著した『五輪書』には、吉岡一門との決闘について「廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるという事なし」と書かれていることからすると、武蔵を信じるならば、この時の決闘は引き分けだったと考えるのが適切かもしれませんね。
文化人・本阿弥光悦との出会い
さて、話を清十郎を倒したところに戻しましょう。清十郎を倒した武蔵は、必死のその場から走り去り、殺風景な荒れ野にたどり着いたところで、当代きっての文化人、本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)に出会います。これが偶然のことなのかどうかはわかりませんが、武蔵が決闘することは世間に知れ渡っていたことなので、案外、光悦は武蔵が現れるのを待っていたのかもしれません。
この後、光悦は殺気に満ちた武蔵の心を和らげるために、武蔵を島原遊郭の前身である六条三筋町の花街に誘いました。武蔵は光悦の心遣いを知り、花街の門をくぐることになりますが、ここで、光悦と交流が深かった、かの有名な吉野太夫と知り合うことになったのです。
そして、それから間もなくして、武蔵は吉岡一門と2度目の決闘を行います。次なる相手は、清十郎の弟である伝七郎。戦いの場所は映画や小説では東山の三十三間堂として描かれていますが、実際はどこで行われたのかはわかっていません。
伝七郎は5尺余り(約150センチ)ある長い太刀で、武蔵に挑みましたが、武蔵にあっけなく太刀を奪われ、逆にその太刀で斬り殺されてしまいます。またしても、武蔵の勝利となりました。
面子丸つぶれの吉岡一門は、武蔵に総力で挑むことを決意します。それが3度目の戦いとなる「一条寺下り松の決闘」です。
3度目の決闘への思い
武蔵はこの決闘にはただならぬ覚悟をしていたようで、下り松に向かう前に必勝祈願をするため、途中にある八大神社(はちだいじんじゃ)に立ち寄り、拝殿の前に立ちました。しかし、武蔵は何かを悟ったのか、手を合わすことなく、頭を軽く下げただけで立ち去ったと言われています。この時、武蔵はどうして神に祈らなかったのでしょうか…。それは武蔵本人のみが知ることですが、武蔵が晩年、書き記した「独行道(どっこうどう)」という書物に、その時の心境だとされる言葉が残されています。
『我、神仏を尊んで、神仏に恃(たの)まず』
武蔵は己のチカラを信じ、神頼みをするのではなく、武士らしく、悔いのない闘いをしようと思ったのでしょう。自分の生死は神仏のみが知ることと悟ったのです。
武蔵 vs 数百名の吉岡門弟
夜明け前の、まだ薄暗い一条寺下りの松。そこに集まった吉岡の門弟の数は数百人にのぼったとされています。この時、武蔵は下り松を見渡せる場所に潜み、門弟の配置の様子を確認していました。この時の吉岡の大将は吉岡源次郎。12歳というまだ幼い少年でした。その源次郎の居る場所を見極めた武蔵は、下り松に向けて一気に駆け下り、織田信長が桶狭間で大軍の今川勢をやぶった時のように、門弟たちの背後にまわり、躊躇することなく、元服前の子供だった源次郎を斬りつけたのです。
武蔵の奇襲攻撃で虚を突かれた吉岡の門弟たちは慌てふためきますが、すぐに気を取り直して、武蔵に向かっていきました。しかし、武蔵は着実に相手を斬り、ついに門弟たちを突破し、南へと逃げ去り、九条大宮にある東寺の塔頭、「観智院(かんちいん)」に暫くの間、身を隠したと言われています。
観智院の客殿には、武蔵が身を隠している間に描いたとされる『鷲の図』と『竹林の図』が残されています。一気に描いたような鋭い筆裁きには、死闘に勝ち抜いた剣豪の気迫が感じられ、見る者を魅了します。
武芸者であり、思想家でもあった宮本武蔵
武蔵は1645年(正保2)年6月13日に千葉城の屋敷で何らかの病気か、もしくは老衰で亡くなりました。出生がいつのことかがはっきりしていないので定かではありませんが、享年は60過ぎだったのではないかと言われています。生死を賭けた実戦に挑み続けたわりには、剣によって命を落とすことなく、その年齢まで生き続けたということは、やはり、並みならぬ剣の達人だったということなのでしょう。
前半生は剣の武芸者として、そして、後半生は思想家として生きた宮本武蔵。武蔵のイメージは、小説やドラマで作られ、ある意味、ヒーロー的でもありますが、本当の宮本武蔵とはどんな人物だったのかと興味がつのります。
一条寺下り松:京都市左京区一乗寺花ノ木町
八大神社:京都市左京区一乗寺松原町 TEL : 075-781-9076
観智院:京都市南区九条町403 TEL : 075-691-1131
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