恋塚寺 ~文覚が愛した女性が眠る寺

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京都市伏見区の下鳥羽(しもとば)に茅葺きの瀟洒な門が立つ「恋塚寺(こいづかでら)」があります。随分、色香のある名前なので俗名や通称名かと思われるかもしれませんが、これが正式な寺名なのです。

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恋塚寺は浄土宗のお寺ですが、このお寺が建立された背景には、その名が示す通り、あるひとつの恋にまつわるエピソードがありました。今回は武士で僧侶の文覚(もんがく)が開いた「恋塚寺」の話をしましょう。

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文覚が心奪われた美しき女性とは?

恋塚寺は1868(明治1)年の「鳥羽・伏見の戦い」により焼失したため、現在の恋塚寺は、明治に入って再建されたものですが、その起こりは平安時代末期の1182(寿永1)年だとされていますので、小さなお寺ですが、かなり歴史のあるお寺です。

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このお寺は、文覚(もんがく)という僧侶が、ある女性の菩提を弔うために建立されました。そのある女性とは、母親への“孝”と夫への妻としての“貞”を貫くために、自らの命を犠牲にした女性、袈裟御前(けさごぜん)のことです。

袈裟御前は北面の武士のひとり、源渡(みなもとのわたる)の奥方で、とても美しい女性だったと言われています。鎌倉時代に書かれたとされる軍記物語『源平盛衰記(げんぺいせいすいき:「平家物語」の数多くある異本のひとつ)』の中で、“中国古代の美人・毛嬙(もうしょう:越王の愛姫)、あるいは西施(せいし:中国古代四大美女のひとり)の生まれ変わりか、はたまた慈悲を司る菩薩の観音あるいは智慧(ちえ)を象徴する菩薩の勢至(せいし)が人の姿をとって現れたのか”と書かれているぐらいですから、その例えからすると袈裟御前は並々ならぬ美貌の持ち主だったようですね。

そんな袈裟御前に心を奪われてしまったのが、のちの文覚である遠藤盛遠(えんどう もりとお)です。

北面の武士のひとり、遠藤盛遠

幼少の頃の盛遠は、大人の言うことはもちろんのこと、親の言うことにさえ聞く耳を持たず、近所の子どもたちを集めては野山を駆けまわり、田畑を荒らす、いわゆるガキ大将でした。

13歳になって元服(成人式)を迎えた盛遠は、遠藤武者盛遠として父の盛光の跡を継ぎ、第74代鳥羽天皇の皇女・統子内親王(むねこないしんのう:上西門院統子)に仕える“北面の武士(院の御所の北面に詰め、院中の警護を務めた武士)”になりました。そんな勇猛果敢で、荒々しい性格の盛遠が17歳の時、彼の運命を大きく変えることになる女性、袈裟御前に出会うのです。

袈裟御前との運命の出会い

御所の渡辺の橋の完成供養が催され日のこと。盛遠はその行事の警護に当たっていました。行き交う人と牛車の波…。その中に怪しい人物がいないかどうかを注視していたところ、盛遠の目が捕らえたのは、盗人の類ではなく、ひとりの美しい女性だったのです。雪と見紛うばかりの肌、丹花のような愛らしい唇、芙蓉のように気高い眼差し…。一瞬にして、盛遠の心はメロメロになってしまいました。

その日から、盛遠の女性への思いは募るばかり。「もう一度、逢いたい…」その一心だけで盛遠は女性の身元を探し出しました。しかし、盛遠はあまりにも辛い現実を知ることになったのです。

その美しい女性の名は袈裟(けさ)。そして、なんと彼女は盛遠がかねてから自分の妻にと内々で申し合わせていた従姉妹だったのです。ところが、それにも関わらず、すでに同じ北面の武士である、渡辺渡(わたなべのわたる)の妻となっていたのです。気性の激しい盛遠は、袈裟への嫉妬心から居ても立ってもおれず、叔母、つまり、袈裟の母親のもとに向かいました。

逆上した盛遠が取った理不尽な行動

盛遠は叔母に会うなり、「叔母上殿は私と約束したことをお忘れか! 袈裟を妻に迎えたいと申し上げていたのに、渡のもとへ嫁がせたとは……。袈裟を想うあまりに、もはや我が身は蝉の抜け殻…。このままでは気が納まらない。袈裟に会わせろ!会わせなければ、今ここで叔母上殿を斬る!」と刀を抜いて迫りました。叔母は恐ろしさの余り、袈裟を呼び寄せることを承知しました。

事情を知った袈裟は、一度だけという約束で盛遠に会いました。ところが、一目会うだけのはずが、盛遠は渡と縁を切って、自分の妻になれと強引に迫ってきたのです。夫を裏切ることはできない。でも、断れば、母上がこの男に殺されてしまうかもしれない。袈裟は“貞”と“孝”との間で苦しみ、困り果ててしまいました。

袈裟御前の悲しき決意

暫くして袈裟は顔をゆっくりと上げて、何かを決意したように唇を結び、気高い眼差しで盛遠の目を見据えて、話し出しました。「承知いたしました。されど、私は夫のある身。私を妻にしたければ、夫の渡を殺してください。そうしてもらわないと、私も心安らかにあなたの妻になることはできません。これから、私は渡に髪を洗わせ、酒を飲ませて寝床に寝かせておきますので、八つの鐘が鳴り終わるのを合図に屋敷に入り、濡れた髪を頼りに渡の首をとってください。夫が亡き者になれば、私はあなたのもとに参りましょう」 その袈裟の言葉を聞いた盛遠は自分の熱い思いが通じたと大喜びし、心躍らせて叔母の家から出て行きました。

悲劇は起きた!

盛遠は袈裟との約束通り、八つの鐘が鳴り終わると渡辺の屋敷に忍び込み、暗がりの中、濡れた髪を掴み、躊躇せずに首を刀ではね、その首を着物にくるみ、腕に抱えて屋敷から走って出て行きました。

それから暫く走り続けた盛遠は、一息つこうと立ち止まりました。そして、着物にくるんだ首を見ると・・・、信じがたきことに月明かりに照らされたその首は、憎き渡の首ではなく、愛しい袈裟の首だったのです。袈裟は、母親への孝行と愛する夫への貞操を守るために、盛遠に夫を殺すように仕向け、実は身代わりになって犠牲になることを選んだのです。

渡辺の屋敷の寝床には、おびただしい袈裟の血と辞世の句が残っていました。『露深き 浅茅が原に迷う身の いとど暗路に入るぞ悲しき』

袈裟の強い決意を知った盛遠は、自分の愚かさと罪深さを嘆き、自らの髪を切り捨てました。

出家した盛遠のその後

その後、出家した盛遠は「盛阿弥陀仏(じょうあみだぶつ)」と名乗り、袈裟御前を弔うために袈裟が眠る場所に草庵を建てました。これが恋塚寺の始まりです。そして、学問に励み、聡明な僧になった盛阿弥陀仏は名を「文覚(もんがく)」と改めました。

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文覚は夏には裸で藪に籠もり、冬には那智の滝に打たれ、大峰、高野、白山、出羽、羽黒など日本中の霊山を駆け巡って命懸けで修行に励んだそうです。そして、30歳の頃に再び、京都に戻ってきた文覚は、荒れ果ててしまっていた高雄の神護寺(じんごじ)の復興に尽力しました。

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源頼朝との出会い

ところが復興が思うように進まないことから、後白河法皇に荘園の寄進を願い出ると、法皇の逆鱗に触れてしまい、流罪になって伊豆へ流されてしまいました。そこで、同じく流罪になっていた、のちの鎌倉幕府初代将軍・源頼朝と出会うことになるのです。幼少の頼朝と親しくなった文覚は、頼朝に大器の片鱗があることを見抜き、日頃から皇室を軽んじていた平家に憤っていたことから、頼朝に平氏を討ち滅ぼすように促しました。その時、頼朝が天下を取れば、頼朝に神護寺の復興に協力する約束を取り付けたと言われています。

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それから20年後の1180(治承4)年8月、頼朝は伊豆で挙兵し、平氏を滅ぼし、鎌倉に幕府を開いたのです。文覚は約束通り、頼朝の協力のもと、神護寺を復興し、同時に東寺や高野山の大塔の復興も進めました。

しかし、政治的な後ろ盾だった頼朝が亡くなると、文覚は佐渡へ流されてしまいました。3年後には京に戻ってきますが、今度は後鳥羽上皇から謀反の疑いをかけられ、対馬へと流されることとなりましたが、その途中の地で、文覚は死を迎えたと言われています。

今も女性が多く訪れる恋塚寺

文覚の人生はまさに波瀾万丈と言えるものですが、その文覚が心奪われた袈裟御前の、身をもって示した“孝”と“貞”を貫く心と、文覚のその生涯における、やり直すことの大切さには、時代を超えて訴えるものがあるように思えます。

“貞女の鑑(ていじょのかがみ)”と尊敬される袈裟御前が眠る恋塚寺には、今も多くの女性が訪れています。境内にある恋塚の塔は、文覚が眠る高雄の方角に向けられているのですが、それは袈裟御前の霊が「今でも私を愛していますか?」と問い掛けているかのようです。

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恋塚寺:京都市伏見区下鳥羽城ノ越町3-1 TEL : 075-622-3724

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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