銀閣寺 ~銀箔は初めから貼るつもりはなかった!?

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東山にある月待山(つきまちやま)の麓に建つ「銀閣寺」。銀閣寺は、室町時代後期に栄えた東山文化を象徴する寺院で、四季を通じて、多くの人が訪れる京都の代表的な名所です。今回は、世界文化遺産にも登録されている「銀閣寺(ぎんかくじ)」の話をしましょう。

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足利義政の別荘

銀閣寺は室町幕府の8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)が「金閣寺(鹿苑寺:ろくおんじ)」を模して、1482(文明14)年に東山に造営した東山山荘が始まりです。つまり、もともとは、義政の別荘であり、今のように寺院になったのは義政が亡くなった後のことです。

一般的に「銀閣寺」と呼ばれていますが、銀閣寺は通称で、正式名称は「慈照寺(じしょうじ)」です。東山山荘の中核をなす楼閣建築の建物「観音殿」が“銀閣”と呼ばれたことから、銀閣寺という名称が正式名よりも広く知られるようになったのです。

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銀色には輝かなかった銀閣

銀閣寺に初めて訪れた人が観音殿を見たとき、その黒塗りの地味な姿にガッカリしたという話はよくあります。それは、恐らく、義政の祖父である足利義満が造った鹿苑寺の金閣と比べられるからでしょう。

金閣はその名の通り、金色に輝く絢爛豪華な建物ですが、銀閣はその名前に反して、銀色には輝いていません。銀閣寺は北山文化の代表的な建築物である金閣寺を参考にして造られたとされているので、そうであれば、義政も観音殿に銀箔を貼ることを考えていたかもしれません。しかし、完成した観音殿は禅宗様式のひっそりとした佇まいの建物でした。銀箔を貼らなかった理由として、“当初は銀箔を貼る計画があったが、幕府の財政難から中止になった”、などと言われていますが、本当のところは、定かではありません。

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義政は政治家としては無能だった

義政は父である足利義教(あしかがよしのり)が殺害され、兄の義勝(よしかつ)が10歳で赤痢によって病死したことによって、わずか8歳にして将軍になった人物です。しかし、義政は政治に対する才覚が乏しく、一国の主導権を握れなかったために、次第に政権への興味を失い、将軍職を自分の息子の義尚(よしひさ)に譲ってしまいます。

そして、芸術を好んだ義政は、建築や書画、茶の湯、生け花などに夢中になり、東山山荘で風流な生活を送りました。そういうこともあって、義政の時代には様々な芸術が発展し、しかもそれは、禅宗の影響を受けた、静かさと奥ゆかしさを重んじるものでした。これが、いわゆる、“東山文化”です。

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銀箔は義政の美意識に反する

その東山文化を作り上げた義政は禅宗様式にある侘び・寂びに対して美意識を感じていたとすれば、派手派手しい銀箔を貼るということは義政の美意識に反することになります。そう考えると、義政は初めから銀箔を貼るつもりはなかったかもしれないなと思うのです。

義政は、今も境内に創建当時のままに残る東求堂(とうぐどう)と呼ばれる阿弥陀堂で日々、暮らしていました。義政はきっと、東求堂から建築中の観音殿を眺めながら、完成した観音殿の姿を思い描いていたことでしょう。しかし、義政は1490(延徳2)年に病に倒れ、観音殿の完成を見ずして亡くなってしまいました。義政が思い描いていた観音殿は銀色に輝いていたのでしょうか…。観音殿に銀箔を貼るつもりだったかどうかは、永遠にわからないことなのです。

境内の池、錦鏡池(きんきょうち)の西角にある観音殿。落ち着きのある柿葺(こけらぶき)の二重の楼閣を見ていると、もしかすると、銀閣の銀は銀箔の銀ではなく、“いぶし銀”の銀のことなのではないかと思えてきます。

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銀閣寺:京都市左京区浄土寺石橋町37 TEL : 075-751-0446

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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