京都怪異譚 その19『人喰い地蔵 ~崇徳上皇の怨霊伝説』

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「われ魔界に堕ち、天魔となって人の世を呪わん。人の世の続く限り、人と人を争わせ、その血みどろを、魔界より喜ばん」

凄まじいまでの怨みの言葉を残して、自らこの世を去った崇徳(すとく)上皇。その霊を慰めるお地蔵さまが、左京区聖護院の「積善院準提堂(しゃくぜんいんじゅんていどう)」というお寺に安置されています。

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“五大力さん”で親しまれているお寺

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積善院準提堂は、本山修験宗の総本山である聖護院の塔頭(たっちゅう)として、鎌倉時代初期に創建されたお寺です。もともとの寺名は「積善院」だったのですが、明治維新後の廃仏毀釈の際に「準提堂(じゅんていどう)」と合併し、現在の2つのお寺が合わさった名称になりました。敷地は元から積善院があった場所ですが、本堂は準提堂から移築されたもだそうで、ちょっと妙なことのように思いますが、当時、廃仏毀釈によって、無理な合併を強いられたお寺は多くあったようです。

このお寺は、毎年2月23日に、山伏が般若心経を読経し、護摩木を焚き上げて、諸願成就を願う“五大力尊法要(ごだいりきそんほうよう)”が行われることで知られ、その日は多くの人で賑わいますが、普段は地元の人が時折お参りに来る程度のひっそりとした寺院です。その境内の片隅に、保元の乱によって都を追われた崇徳上皇の霊を慰めるために祀られた「崇徳院地蔵」があります。この地蔵尊には「人喰い地蔵」という、なんとも恐ろしい呼び名が付いているのです…。

実の父親に嫌われた崇徳上皇

崇徳は平安時代の末期に、鳥羽上皇の第一皇子として生まれました。ところが、崇徳は鳥羽上皇の祖父である白河法皇が母・璋子(しょうし/たまこ)との密通、つまり不倫により生まれた子どもだったのです。このために鳥羽天皇は崇徳を自分の子とは認めず、「叔父子」と呼ぶほどに崇徳を疎んじていたと言われています。

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崇徳は5歳にして即位し、天皇になりますが、当時はいわゆる院政の時代。実権を握っていたのは天皇ではなく、「治天の君」と呼ばれた天皇の父や祖父が政を行うのが慣例だったのです。自分に実権がない崇徳はやがて自分の子どもが天皇に即位し、自らが「治天の君」になる日を夢見ていました。しかし、とことん崇徳を嫌った鳥羽上皇は、崇徳を退位させ、藤原得子(ふじわらのなりこ:美福門院)に生ませた第九皇子の近衛を天皇に就けたのです。まさに嫌がらせの極み!

その後、近衛天皇は若くして崩御してしまうのですが、次に鳥羽上皇が天皇に就けたのは崇徳ではなく、崇徳の弟である後白河だったのです。鳥羽上皇は徹底して、崇徳を自分の周りから遠ざけようとしたわけです。崇徳のその屈辱は如何なるものだったでしょう…。

肉親が血で血を洗う、悲惨な戦い

ところが、運命とは皮肉なもので、事態は急展開を見せることになります。後白河天皇が即位した翌年の1156(保元1)年、鳥羽上皇が崩御してしまい、その結果、崇徳と後白河天皇は兄弟で権力の座を争い、そして、公家に代わって台頭してきた武士階級の源氏と平氏も血で血を洗う戦へとなっていったのです。これが、世に云う「保元の乱」です。

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「保元の乱」は歴史上、よく知られている戦で、長きに渡る戦だったような印象がありますが、崇徳と後白河の兄弟争いの戦局は一機に決したと言われています。崇徳が自分の屋敷である崇徳院で兵を挙げた翌日、後白河天皇の軍勢は崇徳院を急襲し、あっけなく崇徳方の敗北に終わってしまうのです。この間、実質2日という、意外にも短い戦だったのです。

戦に負け、囚われの身になった崇徳は流刑になり、讃岐(現在の香川県)へ送られました。都に戻ることを切に願った崇徳は、保元の乱を引き起こしたことを悔い改め、その証しとして、3年もかけて10巻にも及ぶ写経を記し、都に送りました。ところが、送った経文はあっさりと突き返されてしまったのです。この時、落胆と怒りが渦巻いた崇徳は、送り返された経文に、自らの舌を食いちぎり、滴る血で「われ魔界に堕ち…」という呪いの言葉をしたためたと言われています。

この世を呪い続けた崇徳上皇

その後、8年間、讃岐に留め置かれた崇徳は、朝廷を呪い、世を呪い続け、ついに狂い死にしてしまいました。すると、崇徳の呪いの言葉通りなのか、都では火事が相次ぎ、疫病が流行り、挙げ句には大地震まで起こったのです。

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崇徳の霊を慰めるために

都の人々の間では、この数々の災いは哀れな死を遂げた崇徳の祟りに違いないとして、崇徳の霊を慰めるために、崇徳の屋敷があった鴨川の東、春日河原に粟田宮という神社を建て、そこに「崇徳天皇廟」を造ったのです。その後、長い年月とともに粟田宮は衰退し、地蔵尊だけが残りました。

「崇徳天皇廟」があった場所は、現在の京都大学医学部附属病院の敷地で、そこにあった地蔵尊は明治になって、病院の建設に伴い、聖護院の積善院準提堂に移されました。

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どうして“人喰い地蔵”とよばれるようになったのか?

ところで、この「崇徳院地蔵」がどうして“人喰い地蔵”という怖い名前で呼ばれるようになったかというと、世を呪った崇徳上皇だけに、何かいわくがありそうに思えますが、実はそのようなものはまったくなく、ちょっと拍子抜けするようなことから、“人喰い地蔵”と呼ばれるようになったのです。

それは、崇徳院地蔵、崇徳院地蔵…と呼んでいるうちに、“すとくいん”が、“ひとくいん”になり、いつしか“ひとくい”となって、「人喰い地蔵」が定着したということなのです。要するに、“すとくいん”が訛って、“ひとくい”になったというわけですね。

このような理由を知ってしまうと、やや味気のないものになってしまいますが、このように訛ったのも、崇徳上皇の呪いが京の人たちに恐れられていたということなのかもしれません。今は、無病息災の守りとして、恐ろしげな名前とは逆に、京の人たちから親しまれています。

積善院準提堂:京都市左京区聖護院中町14 TEL : 075-761-0541

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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