京都の東山に、世界一の長さを誇る木造建築物「三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)」があります。その長さは約120メートル。総檜で作られた入母屋・本瓦葺きの三十三間堂は「蓮華王院(れんげおういん)」という天台宗の寺院の本堂として、平清盛により造営されました。今回は雅な京の街に、一際、存在感がある「三十三間堂」の話をしましょう。
三十三間堂と呼ばれる理由は?
三十三間堂は1164(長寛2)年、後白河上皇が平清盛に命じて、上皇の離宮・法住寺殿(ほうじゅうじどの)の一画に創建され、そこに1001体の千手観音像が安置されたことが始まりです。
創建当時の三十三間堂は、朱色に塗られていたそうです。今は色褪せて重々しさを感じますが、あれだけの規模の建物が朱色であったことを想像してみると、それは派手やかで、離宮には相応しい建物だったことでしょう。
三十三間堂と呼ばれるようになったのは、本堂の長さが尺貫法で33間(けん)あるからだと言われることがあるようですが、これは間違った俗説です。そもそも1間は1.82メートルですから、33間だと約60メートルで、実際の本堂の長さ(約120メートル)の半分の長さにしかならないことになります。
三十三間と呼ばれるのは、本堂の中にある柱と柱の間(柱間:はしらま)が、33あるためで、三十三間堂の読みも“さんじゅうさんげんどう”ではなく、本当は“さんじゅうさんまどう”だという説もあるようです。
また、“33”という数字には観音菩薩が33の姿に身を変えて人々を救うという信仰があることから、柱間が33になるように本堂が設計されたとも言われています。
堂内に立ち並ぶ、1001体の千手観音像
本堂の中に入ると、まず目の前に広がる1001体もの数の千手観音像に圧倒されます。堂内の中央に本尊の「千手観音坐像」が安置されていて、その左右に500体ずつ、10列の段に整然と「千手観音立像」が並んでいます。これらの千手観音像は平安時代から鎌倉時代にかけて、様々な仏師によって作られたものですが、それぞれ顔の表情が違っていて、その中には、自分が会いたいと思っている人に似た顔の像があるとも言われています。
千手観音像を守る神々
そんな千手観音像たちの前には、横にずらりと二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)と呼ばれる仏像が並んでいます。二十八部衆は千手観音の眷属(けんぞく:使者)で、その中には、仏法を守る「阿修羅王(あしゅらおう)」や「帝釈天(たいしゃくてん)」、七福神で知られる「毘沙門天(びしゃもんてん)」など、よく知られている有名な神様もいます。
そして、その左右両端には、国宝の風神像と雷神像が安置されています。風神、雷神と言えば、俵屋宗達が描いた『風神雷神図屏風』が有名ですが、そのモデルとされるのが、この風神像と雷神像なのだそうです。風袋を持った風神像、太鼓を持った雷神像の姿を間近で見ると、迫力がありますが、それ以上にユーモラスが感じられますね。
命を賭けた壮絶な競技、「通し矢」
三十三間堂では、毎年1月に、大的(おおまと)を弓矢で射る弓道の全国大会が行われ、今や京都の風物詩にもなっていますが、この競技の元になっているのが「通し矢」です。
この「通し矢」は、いつ頃から始まったかは定かではありませんが、室町時代に書かれた『洛中洛外図』には三十三間堂の西側の軒下で弓を射る様子が描かれていことからすると、歴史的にはかなり古いものなのでしょう。
「通し矢」とは、本堂西側の軒下、幅2.5メートル、高さ5.5メートル、長さ120メートルの空間を南から北へ、矢を射通す競技で、種目としては4種類あったそうです。その中でもメインイベントとされたのが、「大矢数(おおやかず)」と呼ばれた種目で、なんと暮六つ(午後6時)から一昼夜(24時間)に凡そ、1万本もの矢を射続け、的に当てた数を競うという、豪快かつ壮絶な競技がありました。
「通し矢」が盛んに行われるようになったのは、江戸期になってからのようですが、この頃には、諸藩が名誉をかけて競い合ったそうです。特に弓矢を得意とした紀州藩と尾州藩はライバルとして名勝負を繰り広げました。藩の威信を賭けた対決だったようで、勝負に負けると、切腹をした人もいたそうです。今は成人を迎えた男女が晴れ着を着て60メートル先の的を射る、お正月の華やかな風物詩のひとつですが、当時はまさに命を賭けた壮絶な競技だったのです。
超人的な大記録
三十三間堂には「矢数帳(やかずちょう)」と呼ばれる書物が残されていますが、そこには行われた競技の記録(総矢数や命中の数)が記されています。それによると、紀州藩士の和佐範遠(わさ のりとお)という人物が、総矢数13,053本、通し矢(命中)8,133本という大記録を打ち立てています。
この矢数を時間で考えると、1時間に544本、1分間に約9本、6秒に1本の間隔で弓を射っていたことになります。24時間ぶっ通しで、120メートルも離れた直径1メートルほどの小さな的に、60%以上の確率で矢を命中させたわけですから、和佐範遠の技術と体力、精神力はまさに超人的ですよね。因みに、この記録が作られたのは、範遠が18歳の頃だったそうです。恐るべし…。
続けざまに素早く事を行う意味の“矢継ぎ早”という言葉がありますが、この言葉の由来はどうも「通し矢」にあるようです。確かに、昔、行われていた「通し矢」の様からすると、そこから“矢継ぎ早”という言葉が生まれたのもわかるような気がしますね。
矢にいにしえへの想いを馳せる
三十三間堂の軒の中ほどに、今も1本の矢が刺さったまま、残されています。「もしや、この矢は壮絶な通し矢が行われた時代の矢か!?」と思ったのですが、残念ながら、この矢は昭和にイベントとして行われた通し矢の際に、射損じて刺さったものだそうです。それでも、この刺さった矢に、通し矢が行われた古(いにしえ)に想いを馳せるのも一興かもしれませんね。
蓮華王院 三十三間堂:京都市東山区三十三間堂廻町657 TEL : 075-561-0467
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