京の七不思議 その15『金戒光明寺の七不思議』

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法然上人が開いた初めての草庵

1175(安元1)年、法然上人が念仏を広めるために、今の左京区黒谷に創建されたお寺、「金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)」。紫雲山(しうんざん)と号する浄土宗の大本山で、比叡山西塔の黒谷にならったことから、通称、“黒谷さん”と呼ばれ親しまれています。

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西山連峰や小倉山を臨み、敷地には18もの塔頭寺院が建ち並ぶ大きなお寺です。重要文化財の寺宝や、庭、山門、阿弥陀堂など見所が多いにも関わらず、何故か訪れる人は少なく、そのために、映画やテレビのドラマの撮影で使われることがよくあるようです。

さて、このお寺にはどんな不思議があるのでしょうか。今回は法然上人が京洛に最初に開いた念仏道場、金戒光明寺の七不思議の話をしましょう。

金戒光明寺の七不思議とは!?

金戒光明寺の七不思議:その1「一枚起請文」

金戒光明寺に伝わる「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」とは、法然上人が亡くなる二日前、1212(建暦2)年1月23日に、身の回りの世話をしていた弟子のひとりである源智上人(勢観房源智:せいかんぼう げんち)の要望に応じて書かれたものです。

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「一枚起請文」には、浄土宗の教えの要である念仏の意味や心構え、態度について書かれているのですが、それは長々とした文章ではなく、わずか十数行という極めて簡略に記されています。その中でも『智者(道理をわきまえた人)のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし』という一文が最も大切な部分で、浄土宗一宗の教えがすべてここに集約されているとされています。念仏を称えれば必ず救摂するという阿弥陀仏の言葉通り、あれこれ言わずに、ただ一心に念仏を称えることが浄土宗の本質であり、根源であるという意味だそうです。

法然上人の直筆で書かれたこの文章は、法然自身の誓いの言葉が記され、法然自身の両手の判が押されていることから、「御誓言の書」とも呼ばれているのですが、これが師・法然の教えの核心だと見抜いた源智は、大切に首にかけて誰にも知られないように、隠し持っていたそうです。「一枚起請文」が世に広まるのは、それから暫く後になってからのことです。

法然上人から絶大な信頼を得ていた源智ですが、「一枚起請文」を托されたのは、相当なプレッシャーだったでしょうね。隠し持っていたときの気持ちは如何ばかりだったでしょうか…。

金戒光明寺の七不思議:その2「乙子の阿弥陀」

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1605(慶長10)年に豊臣秀頼によって再建された阿弥陀堂は、金戒光明寺の中では最も古い建物だとされています。その阿弥陀堂に安置されているのが、ご本尊の阿弥陀如来像です。

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この阿弥陀如来像は、『往生要集』を著し、浄土教の基礎を築いた平安時代中期の僧、恵心僧都源信(えしんそうず げんしん)が生涯において手掛けた最後の仏像彫刻と言われています。そのために、末とか最後の意味を持つ“乙(おつ)”を用いて、「乙子の阿弥陀(おとごのあみだ)」や「乙子如来(おとごにょらい)」、または「乙如来(おとにょらい)と呼ばれています。

また、この仏像を以降、今後、仏像を作らないということを示すために、源信は阿弥陀如来像の胎内に彫刻に使った“のみ(鑿)”を納めたという逸話が残されています。そのことから、「のみおさめ如来」や「お止めの如来」といった異名もあります。

源信は76歳にて、その生涯を終えますが、その時、源信は阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手に持って、合掌しながら最期を迎えたと言われています。源信は阿弥陀如来と共に今も生き続けているのかもしれません。

金戒光明寺の七不思議:その3「蓮生房 鎧掛けの松」

戦国の世、血で血を洗うことに無常を感じたひとりの武将が、身に着けていた鎧を池で清め、武士道に別れを告げる意味で、1本の松にその鎧を掛けました。その武将とは熊谷直実(くまがい なおざね)で、この松が後世に語り継がれる「鎧掛けの松(よろいかけのまつ)」です。

平安末期の1184(元暦1)年に起きた源氏と平氏の戦い、「一ノ谷の戦い」。この戦いは平氏の多くが討たれる結果になりましたが、この時、源氏の武将だった熊谷直実は、平清盛の甥の敦盛(あつもり)を討ち取りました。

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敦盛はまだ16歳という若さで、しかも、直実の息子と同じ年だったため、哀れに思い、逃がしてやろうと思ったそうなのですが、他にも手柄を取ろうとする追っ手が幾人もいたことから、それならばと断腸の思いで、直実は敦盛の首を討ち取ったのです。直実が鎧を脱ぎ捨て、仏門に入ることを心に決めたのは、その際に感じた無常感からだと言われています。

敦盛を討ったことで人を無情に殺める武士に失望した直実は、京都・黒谷の法然上人を訪れ、「こんな人間でも往生できるでしょうか」と問うと、法然上人は静かに「念仏さえ唱えれば救われる」と答えました。直実はその答え次第では、その場で命を絶つ覚悟だったそうですが、法然上人の言葉を聞いて救われた気持ちになり、さめざめと泣いたのでした。そして、直実は清めた鎧を松に掛け、出家し、法名を蓮生(れんしょう、又はれんじょう)としました。

直実が出家した理由としては、鎌倉八幡宮で行われる流鏑馬(やぶさめ)の的立てに抜擢されたことを不服として辞退したことが、頼朝の怒りに触れ、所領を減らされたことと、久下直光(くげ なおみつ)との間で領地争いが起きた際、頼朝の面前で行われた言い分の論じ合いに負けて面目を失ったことだと言われていますが、それは表向きであって、本当の理由は、“世の無常”を儚んだことにあったのではないでしょうか。

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御影堂に向かって右側にある松が、「鎧掛けの松」です。背が低く、若い松ですが、この松は3代目で、それまであった、大きくて立派な2代目は、残念なことに2013(平成25)年9月に枯れてしまいました。今の3代目は2014(平成26)年3月に植えられたものだそうですが、この小さな松が「鎧掛けの松」の言い伝えに相応しい大きさに育つまでは、あと何年掛かることでしょうね…。

金戒光明寺の七不思議:その4「熊谷直実・平敦盛の供養塔」

熊谷直実が仏門に帰依することができたのは、一ノ谷の戦いから8年も経ってからのことで、直実が51歳の冬のことでした。家督はすべて嫡男の直家(なおいえ)に譲り、法然上人の弟子として、念仏三昧の生活を送ることになったのです。

一ノ谷の戦いで敦盛の首を討ってからは、自分の身が敦盛の血で真っ赤に染まるという悪夢に悩まされ続け、若き命を無残に絶ったことに対する慙愧の念と世の無常に悩む日々だった直実は、法然上人の下で一心に念仏を唱え続けました。

そして、1208(承元2)年9月14日、直実はこの世を去ります。享年68歳。

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法然上人の遺骨を祀る御廟の前に、高さ2メートルを超える熊谷直実と平敦盛の供養塔が向かい合うように建っています。誰が、そしてどのような意向でそのような配置にしたのかはわかりませんが、ちょっと心憎い計らいだと思いませんか? それはまるで直実が哀れな敦盛を優しく見守っているかのようです。因みに和歌山県の高野山にも2人のお墓が並んで建っています。

金戒光明寺の七不思議:その5「紫雲石」

金戒光明寺の塔頭寺院・西雲院(さいうんいん)に「紫雲石(しうんせき)」と呼ばれる、ちょうど人ひとりが座れる半畳ほどの大きさの石があります。

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その昔、法然上人は、すべての人々が等しく救われる道はないかという自問の答えを見つけるために、何年も比叡山に籠もり、修行と学問に勤しんでいましたが、法然上人が43歳の時、念仏こそがその答えであることを悟り、浄土宗を開くことを決意しました。

そのことを人々に伝えるために、比叡山を下りて都へ向かいますが、その途中、西に都を望む丘の上に突き出た岩を見つけ、その岩に腰を掛けて念仏を唱え始めました。すると、たちまちにして空に紫色の雲が広がり、その合間から幾つもの光が射し込むという神秘的な現象が起きたのです。

法然上人は、これを霊相と考え、この岩を「紫雲石」と名付け、その場所に草庵を結んだのです。それが金戒光明寺の起こりで、山号を紫雲山としたのです。

「紫雲石」は、見た目には何の変哲もない岩ですが、法然上人の霊力によって不思議な力が宿っているのでしょうか…。

金戒光明寺の七不思議:その6「会津藩殉難者墓地」

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金戒光明寺の広い境内の北の端に「会津藩殉難者墓地」があります。この辺りまで足を伸ばす人は少なく、ひっそりとした佇まいの場所ですが、この墓地には幕末の戦いで命を落とし、故郷に戻ることなく京の都で果てた会津藩の人々が弔われています。

1862(文久2)年8月1日に京都守護職に命じられた会津藩主の松平容保(まつだいら かたもり)は、金戒光明寺に本陣を置きました。金戒光明寺が本陣に選ばれた理由は、粟田口や御所に近く、要塞のような地形になっていることと、1千名もの家臣を駐在させることができる広い敷地を持っていたことにあったようです。

当時の京都では尊王攘夷派による強奪や暗殺が日常的に起きていましたが、1863(文久3)年8月18日の政変で京都から尊王攘夷派を追放するなど、会津藩士はめざましい活躍をしました。

しかし、その反面、犠牲となる家臣も多くいたようです。15代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)が大政奉還をすると、京都守護職も廃止されますが、金戒光明寺に本陣を置いてから6年間の戦死者の数は237名にも及びました。

京都の治安を守ることを使命とされた会津藩。孝明天皇からも信頼を得ていましたが、大政奉還後、薩摩藩や長州藩の策略により、会津藩は朝廷に敵対する反逆者を意味する“賊軍(ぞくぐん)”の汚名をきせられてしまいました。そのために、1868(慶応4)年1月に起きた「鳥羽伏見の戦い」で犠牲になった会津藩士の遺体は賊軍であることを理由に真っ当に葬られず、野ざらしにされたのでした。

その酷い仕打ちに心痛めた京都の侠客・会津小鉄(あいづのこてつ、本名:上坂仙吉〔こうさか せんきち〕)は、新政府軍を恐れることなく、容保の恩義に報いるとして、自分の子分を200名余り動員し、金戒光明寺の墓地に手厚く葬り、供養塔を建てたのです。

会津藩殉難者墓地には1862(文久2)年から1867(慶応3)年までの間で亡くなった237霊、1868(慶応4)年の鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊、そして、1854(元治1)年の蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)の戦死者22霊が、人知れず、静かに眠っています。

金戒光明寺の七不思議:その7「明星井」

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金戒光明寺の境内の西に、塔頭寺院の「栄摂院(えいしょういん)」があります。この寺院は安土・桃山時代の武士で徳川家康の家臣、木俣守安(きまた もりやす)が1589(天正17)年に、松誉上人(しょうよしょうにん)を開山として創建された、浄土宗のお寺です。

秋には紅葉が美しい栄摂院ですが、その庭の奥に、今も湧き続けている「明星井(めいせいい)別名:天人影向の井(てんじんようごうのい)」という井戸があります。京都には名水と言われる水が多くありますが、この明星井の水も“黒谷明星水”と呼ばれ、京都の名水のひとつとされています。

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山懐の井戸から湧き出る清水に天から明星が降り落ち、そこから菩薩様が現れたという言い伝えから、“明星水”と名付けられたのだそうです。如何にも伝説的な水ですが、皇族や公家たちは、この明星水を好み、茶の湯を楽しんだと言われています。

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金戒光明寺:京都市左京区黒谷町121 TEL : 075-771-2204

西雲院:京都市左京区黒谷町121 TEL : 075-771-3175

栄摂院:京都市左京区黒谷町33

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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