三千院 ~波瀾万丈の経緯を辿った門跡寺院

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♫~京都 大原 三千院 恋に疲れた 女がひとり 結城に塩瀬の 素描の帯が 池の水面に 揺れていた 京都 大原 三千院 恋に疲れた 女がひとり~♫

男性4人のボーカルグループ、デューク・エイセスの1966(昭和41)年のヒット曲『女ひとり』。歌詞の中の“結城に塩瀬の 素描の帯”は作詞家であり、タレント、随筆家でもある永 六輔(えい ろくすけ)氏の奥様が着ていらっしゃった着物をモチーフに書かれたそうです。この歌によって京都・大原にある三千院は全国に知られるようになりました。

今回は千年の往古より天台声明(てんだいしょうみょう)の修行の地として信仰を集めてきた「三千院(さんぜんいん)」話をしましょう。

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意外にも新しい寺院

高野川(たかのがわ)の支流となる2つの小さな川、南の呂川(りょせん)、北の律川(りつせん)に挟まれた地にある三千院。三千院は「天台宗五箇室門跡(京都五箇室門跡)」のひとつに数えられている格式の高い天台宗の寺院です。

因みに門跡とは門跡寺院(もんぜきじいん)のことで、平安末期から鎌倉前期にかけて登場する皇族や貴族が住職を務める特定の位の高い寺院のことです。その他の天台宗五箇室門跡は青蓮院、曼殊院、妙法院、毘沙門堂です。

三千院と聞くと、さも歴史のある古いお寺だと思われる方も多いでしょうが、実は意外にも新しい寺院なのです。三千院自体は明治になって、今の地に移転してきたもので、ここにもともとあった「往生極楽院(おうじょうごくらくいん)」という寺院を取り込みような形で造営され、1871(明治4)に寺名として「三千院」と呼ばれるようになったのです。

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伝教大師・最澄のお寺

天台宗ということでお分かりの通り、三千院は伝教大師・最澄が開基したお寺です。最澄と言えば、世界文化遺産にも登録されている比叡山延暦寺を開いた天台宗の祖ですが、その最澄が比叡山に延暦寺の根本中堂(こんぽんちゅうどう)を建てた際に、寺内にある東塔南谷(とうどうみなみだに)の梨の大木の下に「円融房(えんにゅうぼう)」と呼ばれる住房(僧侶が生活する建物)を開いたことが、三千院の始まりだとされています。

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波瀾万丈の経緯

その後、860(貞観2)年に承雲(じょううん)和尚が最澄自らが彫ったと伝わる薬師如来像を円融房に安置し、同年に清和天皇の勅願を受けて、比叡山の麓(現:滋賀県大津市坂本)に円融房の里房(人里に設けられた僧の住まい)を建てました。この里房は「円徳院」という名称がありましたが、ここに密教の修法である加持(かじ)に用いる井戸(加持井)があったことから、「梶井宮(かじいのみや)」と呼ばれるようになりました。

そして、1118(元永1)年に堀川天皇の皇子・最雲法親王(さいうんほっしんのう)が梶井宮に入り、それ以後、皇室や摂関家の子弟が住持として入寺するのが習わしとなったことから門跡寺院となり、「梶井宮」は「梶井門跡(かじいもんぜき)」と称されるようになったのです。

1156(保元1)年になると、延暦寺は大原に古くからあった「来迎院」「勝林院」「往生極楽院」などの寺院を管理するために、今の三千院のある地に梶井門跡の政所(まんどころ)を置きました。

比叡山の麓にあった梶井門跡は、不幸にも1232(貞永1)年に大火に遭い、京都市内の各地を転々としました。しかし、京の都を焼け野原にした応仁の乱(1467~1477)によって梶井門跡の建物は焼失し、大原の政所に移ることになったのです。

それから後の1698(元禄11)年に江戸幕府の5代将軍・徳川綱吉から、京都御苑と鴨川の間の一角(現:京都府立医科大学と附属病院が建っている辺り)の土地が与えられ、梶井門跡はそこに移ることになりました。これで暫くは落ち着いていたのですが、それから170年後の1868年に、神仏分離令後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が起こり、梶井門跡は取り壊され、寺宝だけ大原にある梶井門跡の政所に移されたのです。

そして、1871(明治4)年に梶井門跡の政所は本殿と定められ、寺名も「三千院」と改められたのです。この「三千院」という寺名は、梶井門跡の仏堂の名称である「一念三千院」から取られたものだそうです。

山里に静かに佇む三千院は今に至るまで、波瀾万丈の経緯を辿った寺院だったのです。

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江戸時代の茶人が作った2つの庭園

三千院の境内は木々が立ち並び、深い森に包まれています。その森の中の木漏れ日が射し込む場所に、陽の照り返しを受けて目映いほどの本尊阿弥陀仏が座している「往生極楽院阿弥陀堂」があります。その森の緑と煌びやかな阿弥陀仏の黄金色に、訪れる者は誰しも浄土の世界を彷彿させることでしょう。

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阿弥陀堂の周辺には、自然の地形を生かした庭園が2つ、広がっています。ひとつは客殿を介して広がる、律川の水が引かれた池泉鑑賞式庭園の「聚碧園(しゅうへきえん)」。そして、もうひとつは宸殿前に広がる雄大な池泉回遊式庭園の「有清園(ゆうせいえん)」。作庭はいづれも茶風が優麗で上品であることから“姫宗和(ひめそうわ)”と呼ばれた江戸初期の茶人・金森宗和と伝えられています。

「聚碧園」は、その名にある通り、緑(碧)が集(聚)まるという意味があり、張られた池を囲むように、カエデやツツジ、シャクナゲ、サツキなどの多くの植栽が立体的に配置されています。

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「有清園」は作家・井上靖が「東洋の宝石箱」と称賛した庭園です。その名の由来は、中国六朝時代、南朝の宋の詩人・謝霊運(しゃ れいうん)が書いた『山水清音有(山水に静音あり)』という詩にあると言われています。長い歳月を経てそびえ立つヒノキやスギ、ヒバ、そして、まるでビロードを敷き詰めたような、見事な青苔が見る者の心に安らぎと静寂を与えてくれます。

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三千院には国宝や指定文化財も多くあり、見どころが多い寺院ですが、特にこの2つの庭園は時間を掛けて眺めたいものです。

大原に語源があった言葉

最後に余談をひとつ。冒頭で三千院は呂川(りょせん)と律川(りつせん)に挟まれた地にあると話しましたが、この2つの川の名前、ちょっと変わっていると思いませんか? 実はこの2つの川は声明(しょうみょう)の呂(呂旋法)と律(律旋法)に由来しているのです。

三千院がある大原は“声明の里”と呼ばれ、古来より声明(※寺院の法要儀式として行われる仏教の儀式音楽で、僧侶が経典などに独特の節をつけて唱和するもの)が盛んに行われていました。

『徒然草』の作者である吉田兼好は「唐土は呂の国なり。律の音なし。和国は単律の国にて、呂の音なし」(徒然草・第199段:中国は雅楽の呂旋法の国であり、律の音階がない。日本は、律旋法で雅楽が演奏される国で、呂の音階がない)と記していますが、このことから呂曲(呂旋法)を律旋法で唱和するとき、呂と律の使い分けがうまくできないことを「呂律が回らない」と言うようになりました。お酒に酔っ払った人が何かしきりに言っているけど、何を言っているかまったく判らないという状態も「呂律が回らない」と言いますが、この言葉の語源はここ大原にあったのです。

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三千院(三千院門跡):京都市左京区大原来迎院町540 TEL : 075-744-2531

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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