「千本通」とは、何が千本なのか?

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碁盤の目の如く、東西南北に通る、京都の “通り”。その通りに付けられた名前には、どうしてそんな名前が付けられているのだろうと、一度、疑問に思ってしまうと、どうも気になって仕方なくなる通りがあります。例えば「千本通(せんぼんどおり)」。シンプルな通り名ですが、シンプルが故に “千本” が気になってしまう。通りが千本もあるわけないし…。いったい、何が千本もあったのでしょうか? 今回は名前のいわれが気になる「千本通」の話をしましょう。

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「千本通」は長〜い通りです

千本通は、京都市の中心からやや西にあり、二条城の西側にある、新撰組で有名な壬生寺の辺りを南北に通る幹線道路です。北は丸い「悟りの窓」と四角い「迷いの窓」が有名な鷹峯(たかがみね)の源光庵から、南は途中は途切れるものの、伏見区にあるJRA京都競馬場の最寄りの京阪淀駅近くまで伸びる、全長約17キロもある長い通りなのです。

もともとは平安京のメインストリート

今は京都の南北のメインストリートと言えば、“烏丸通”ですが、平安時代のメインストリートは、この千本通だったのです。当時の通りの名前は「朱雀大路(すざくおおじ)」と呼ばれ、道幅が28丈(約85メートル)という、まさに大路と呼ぶにふさわしい通りでした。

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そして、この朱雀大路を中央にして、京の都は東の左京、西の右京に分けられたのです。朱雀大路の北端には朱雀門があり、その北側には、天皇の住まいや役所が建ち並び、まさに朱雀大路は華やかな都の象徴だったのです。

ところが、都のメインストリートだった朱雀大路は、都の西の端の通りになってしまい、その華やかさを失うことになったのです。その原因は、西の右京の水はけの悪さ。大雨が降ると、なかなか水が退かず、不衛生になり、疫病が流行るようになりました。そして、それに追い打ちをかけるように「太郎焼亡」と「次郎焼亡」という二度の大火に見舞われ、さらに源平の合戦の舞台となったため、右京はほとんど機能しなくなり、10世紀には急速に廃れてしまいました。それと同時に、都の中心部は次第に東の左京に移り、朱雀大路は都の西の端になってしまったのです。

朱雀大路は死者を運ぶ通り

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この朱雀大路の北には船岡山という丘陵があって、その西側には、聖徳太子が母の菩提を弔うために作った「蓮台野(れんだいの)」という埋葬地がありました。そのため、朱雀大路はあの世とこの世の境界線とされ、都から埋葬地に死者を運ぶ通りと考えられるようになります。そして、名前が今の「千本通」に変わっていくことになるのです。

「千本通」と呼ばれるようになった理由とは?

941(天慶4)年、修験者だった、真言密教の僧、日蔵(にちぞう)上人は修行中に急死してしまいました。そして、あの世に行った日蔵上人は、そこで菅原道真を左遷したことで苦しんでいる醍醐天皇と、無念の死を遂げ、壮絶な怨みを持つ道真に出会いました。

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すると日蔵上人は醍醐天皇から、「私が、今、このように苦しんでいるのは、生前に菅原道真を左遷した罰だ。だから、お前はすぐに現世に戻って、尊いお経を唱え、卒塔婆を千本立てて、道真を供養してくれ」と告げられたのです。

生き返った日蔵上人は、醍醐天皇のお告げの通り、蓮台野に千本の卒塔婆を立てて、供養したのでした。それ以来、朱雀大路は千本通と呼ばれるようになったといいます。

これが「千本通」という名前になった由来ですが、別の説もあります。それは“蓮台野に続く道に、誰が立てたかはわからないが、いつしか千本もの卒塔婆が立ち並んでいたため”という説です。いずれにしても、千本通の「千本」とは、卒塔婆が千本立てられたということであることには間違いなさそうです。それにしても、実際に千本の卒塔婆が立っている光景を目の当たりにしたら、かなり不気味でしょうね……。

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(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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コメント

  1. 西鶴好き より:

    この話どこかおかしいと思いませんか。卒塔婆が今のように墓地に並ぶようになったのは江戸時代でしょうし、卒塔婆が冥府にいる人を慰めるために変質したのは早くとも15世紀くらいではないでしょうか。
    もともと、仏舎利をかたどったものが、やがて木で作られるようになり、仏舎利をかたどった板になり、それも今私たちが目にする、長細い物ではなく、もっとずんぐりとしたものであったといいます。仏に祈るものであったのが、いつの間にか、亡くなった人を供養するものに変化してきました。
    怪僧日蔵の話は、漫画のような奇天烈な話が多く、いい加減なものといっても良いほどです。
    千本通りの話も元禄時代に出版された『山州名跡誌』の話が元になっているのではと思えるのですがそこでは、冥途での延喜帝の苦しみを聞いてそれをはらうために、蓮台野に千本の卒塔婆を立てたという話が載っています。延喜帝の話が、分かりやすい醍醐天皇になり、菅原道真など誰でもがある程度知っている人にかわり、適当な話がでっち上げらたと思われます。
    どちらにせよ、卒塔婆の用いられ方が江戸的というか近代的といういみで時代的に錯誤していることが、この話が江戸時代くらいに作られた嘘をもとにしていると断言しても良いかと思う次第です。私たちが知っているこのての話は江戸時代に醸成されたものが多く、そうした意味でも江戸時代についての考証がもっと進めばいいのにと思う次第です。
    また、蛇足ですが、平安京の外側は、藤原貴族の屋敷が立ち並び、蓮台野から連想される死骸を葬った場所というような暗い場所のようにとらえられますが、蓮台野に隣接する北野や平野、柏野、点野などは皇室の御料地であり、一般庶民にかかわるようになったのはずっと時代が下ってからのことと思われます。
    私たちが少なからず影響を受けている江戸時代の連想で、古代を考えると面白いけれど、ちょっとへんてこりんなものができてくるような気もします。

    • cyber-e より:

      西鶴好き様
      ご意見、ありがとうございます。いろいろとお詳しいようで、感心致しております。
      ここで私が書いた“千本”の由来が千本の卒塔婆だというのは、よく言われている説であって、他にも「桜の木が千本あったから」という説や「平家物語に出てくる卒塔婆流しのエピソード」が由来になっているという説もあるようです。何が事実であるかは私にはわかりませんが、由来というものは史実でないことも多く、確かにでっち上げもありますし、辻褄が合わないことがよくありますよね。でも、それが由来というものに対する面白さであると私は思っています。
      因みに、卒塔婆が一般の墓地に立てられるようになったのは、仰る通り、江戸時代になってからだと私も認識しておりますが、卒塔婆自体は、12世紀末に書かれたとされる、六道のひとつである“餓鬼”の世界を描いた「餓鬼草子」という巻物に描かれています。ですから、私は“千本の卒塔婆”というのを江戸時代に作られたウソをもとにしているとは断言できないと思うのですが・・・。
      西鶴好き様のコメント、深く感謝致しております。ありがとうございました。

      • 西鶴好き より:

        管理人さま
        丁寧なコメントありがとうございます。
        どれがホントのことかわからないのが、また面白いところかもしれませんね。
        千年もの間、多くの人が住んでいたのですから、いろんな話が積み重なってそれが、一気に混合されたりします。

        こんなことをいうのも、物ごころついてからわずか50年余りしか経っていないのに、まさに「昔ありし人はまれなり」ということを実感するからです。中高生のころ、方丈記を読んで、「そんなことはないわな」とその記述がオーバーだなと思いましたが、実際には誇張もなく、おおいえすたれてこいえとなる、といった有様です。
        人の記憶も思いも時とともに変わっていくのを実感しているところです。

        私は、京都に住んでいるのですが、小学生のころカエルを取りに西大路辺りまで行きました。田んぼに足を取られて恐ろしい思いをしたことが懐かしい思い出ですが、そんな田んぼなどどこにもなく、イズミヤというスーパーやいろんなビルが建って、あれは夢の中のことかと疑われるほどです。
        また、機会があれば、いろいろな話をお聞きしたいものです。京都市上京区には、ありきたりな雑誌に載っていない、町に潜むディープな話を知っている人がおられます。安物の推理小説よりも矛盾が少なく面白いですよ。

        なにかとNHKで放送される京都御所番組を見たりすると、今が平安時代と連綿と直接つながっている錯覚に陥ってしまいます。しかし、天皇は江戸時代には清涼殿にもうお住まいではなかったことや今の建物は幕末に建てられたこと、今の紫宸殿は松平定信が当代の学者に平安時代の建物を調べさせて作らせたことを思うとちょっと違う感覚を持ってしまったりしますね。

        • cyber-e より:

          西鶴好き様

          コメント、ありがとうございます。
          京都に対する思いが強くお有りのようで、そのような方からコメントを頂けたことに嬉しく思っております。
          千年の都、京都。この都がいかにして生まれ、どのような変遷を辿ったのか、その興味は尽きることはありません。私には通り一遍のことしか書けませんが、またお読み頂ければ幸いです。

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