京都・伏見は、豊臣秀吉がこの地に伏見城を築いたことによって繁栄した城下町です。秀吉が宇治川を改修し、伏見に港を作ったことから、江戸時代になると港町としても栄え、伏見と大阪の間を三十石船が行き交う水上交通の要衝の地でもありました。
安土桃山時代の1597(慶長2)年、伊助という百姓がこの伏見に船宿を開きますが、この船宿がかの有名な「寺田屋(てらだや)」です。江戸時代には大変、繁盛した寺田屋ですが、幕末に、この寺田屋を舞台にした、歴史的に重要な出来事が起きました。今回は今も旅館として営まれている「寺田屋」の話をしましょう。
寺田屋が舞台となった2つの出来事
寺田屋は薩摩藩の定宿で、勤皇の志士たちもここを足場に京都へ行き来していました。この寺田屋で、歴史に残る大きな出来事が2つ起きたのです。そのひとつが、1862(文久2)年に起きた“寺田屋騒動(寺田屋事件、または薩摩藩粛清事件)”、そして、もうひとつが、1866(慶応2)年に起きた“坂本龍馬襲撃事件”です。
“寺田屋騒動”とは
“寺田屋騒動”は、薩摩藩士による同士討ち、言うならば、身内で起きた出来事です。
1862年と言えば、江戸時代の末期で、この頃、薩摩藩では脱藩し、志士として活動する血の気の多い若者がたくさんいました。そのことを快く思っていなかった薩摩藩主・島津久光は、公武合体に反対する薩摩藩尊王派たちが京都所司代を襲撃するために寺田屋に集結することを知り、剣術に優れた9名の刺客を送り、粛清したのです。この時、寺田屋の2階には、大山巌(おおやま いわお)、西郷従道(さいごう じゅうどう)、三島通庸(みしま みつちね)などの大物の尊王派が居ましたが、説得に応じて投降したため、薩摩へ送還されました。後に活躍することとなる彼らが、もし投降せず、殺されていたら、歴史は大きく変わったことでしょうね…。
“坂本龍馬襲撃事件”とは
もうひとつの出来事、“坂本龍馬襲撃事件”は龍馬人気もあって、よく知られている出来事ですが、これは伏見奉行所の役人(捕吏:ほり)たちによる坂本龍馬暗殺未遂事件です。
1866(慶応2)年1月23日の夜、薩長連合を成し遂げた坂本龍馬は、長州藩士の三吉慎蔵(みよし しんぞう)と、後に龍馬の妻となるお龍(おりょう)を待たせている寺田屋に向かいました。
寺田屋に着いたのは深夜の0時頃。龍馬は2階の奥の間で、三吉慎蔵と酒を飲んでいました。その時既に寺田屋は、伏見奉行所の百人を超える役人たちに取り囲まれていたのです。その異変に真っ先に気づいたのが、1階で入浴中のお龍さんでした。ただならぬ事態に驚いたお龍さんは、裸のまま風呂場から飛び出し、2階に駆け上がり、役人たちが取り囲んでいることを、龍馬たちに報せたのでした。
龍馬はピストルで、そして、三吉は得意の槍で役人たちとやり合い、乱闘となって、龍馬は両手首を負傷しますが、三人はなんとかその場を切り抜けることができたのです。お龍さんの機転がなければ、龍馬はこの時点で命を落としていたかもしれませんね。それにしても、お龍さんは慌てていたとはいえ、その時代に、女性が素っ裸で男性の前に立つとは、かなりの度胸の持ち主です。お龍さんは美人で花を生け、茶の湯も致す教養を持ちながらも、気丈で男勝りなところがあった、“京おんな”だったそうです。龍馬はお龍さんのそういうところに惚れたのかもしれませんね。
日本で初めての新婚旅行
龍馬とお龍さんは1月29日まで伏見薩摩藩邸に滞在した後、西郷隆盛らとともに、船で鹿児島に入り、そこから龍馬の両手首の傷の治療をかねて、霧島温泉に向かいました。これが、日本人として最初の「新婚旅行」と言われています。
今も残る船宿の佇まい
凄惨な出来事があった「寺田屋」は龍馬襲撃事件後の1868(慶応4)年に起きた「鳥羽伏見の戦い」で焼失し、現在の建物はその後に再建されたものですが、今も軒先に旅籠(はたご)の提灯が吊され、その佇まいには昔の船宿の情緒が残されています。
龍馬が好んで泊まった部屋は、2階の「梅の間」で、6畳ほどのその部屋には、龍馬の肖像画や写真、刀などが置かれています。肖像画は円山公園にある龍馬の銅像のモデルにもなったもので、当時の寺田屋の女将であり、お龍さんの育ての親でもあったお登勢(おとせ)が、嫌がる龍馬を説得して、町の絵師に描かせたものだそうです。
寺田屋は龍馬とお龍の恋の宿。激動の幕末の中、二人はこの寺田屋の梅の間で、何を語らい、どんな時間を過ごしたのでしょうか。
寺田屋:京都市伏見区南浜町263 TEL : 075-622-0243
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