京都市北区の紫野に、江戸時代初期の茶人でもあった武将の細川忠興(ほそかわ ただおき:細川ガラシャの夫)が父・幽斎(ゆうさい)の菩提を弔うために建立した細川家の菩提寺、「高桐院(こうとういん)」があります。
そのカエデと翠苔が美しい高桐院の境内の一隅に、忠興とその夫人のガラシャのお墓がありますが、その並びに、“歌舞伎の祖”と言われる出雲阿国(いずもの おくに)のお墓が建っています。どうして、ここに阿国のお墓があるのでしょうか…。今回は京都で歌舞伎踊りを広めた「出雲阿国」の話をしましょう。
戦乱の世に現れた、踊りの天才
鴨川に架かる四条大橋の北東のたもと(京阪電鉄・祇園四条駅④ ⑤出入口付近)に、出雲阿国の像が立っています。その台座にある碑文には「都に来たりてその踊りを披露し 都人を酔わせる」と記されていますが、その当時を彷彿させるかのように、右手に扇子、左手に刀、腰に瓢箪をつけて、膝を少し曲げ、はす向かいにある「京都四條 南座」を見上げる阿国の姿には、躍動感があり、どことなく色っぽさも感じられます。
安土桃山時代の1603(慶長8)年、京の都に女性の踊りの天才が現れました。生まれは山陰・出雲国、名は「くに」。伝承によると、くには、出雲国の松江で鍛冶屋を営む中村三右衛門の娘で、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社の勧進のために諸国を踊り巡ったと言われています。
この時、世の中は関ヶ原の合戦が終わったばかりで、阿国が北野天満宮や四条河原などで披露した踊りは、戦乱で荒んだ人々の心を癒やし、評判を博したという記録が残されています。
男装をした阿国
阿国が踊った踊りは「かぶき踊り」と呼ばれ、これが現在の歌舞伎の始まりとされていますが、当時はお囃子や三味線などの伴奏はなく、太鼓や笛などのシンプルな楽器に合わせて踊ったそうです。そんな阿国の踊りが評判になった理由は、単に踊るのではなく、“武家”の扮装、つまり、女性の阿国が男装をし、しかも、当時、武家の間で流行っていた“お茶屋遊び”に通う伊達者を演じたことにありました。
阿国の踊りはとても奇異なもので人目を引いたわけですが、これがかえって人々から「傾く(かぶく=常識離れしている)女」だとして人気を集めることになり、阿国の独特の踊りは「かぶき踊り」と呼ばれるようになったのです。そして、この「かぶき」から「歌舞伎」という名称が生まれたとされています。
阿国の踊りが益々評判になると、阿国を真似た芝居が遊女によって盛んに演じられるようになり、女歌舞伎として大流行しました。ところが、女歌舞伎は見た目がセクシャルなものだったため、1629(寛永6)年に江戸幕府は風紀を乱すという理由から、女歌舞伎は禁止となってしまいました。そういうことがあって、男の役者が女役をする“女形”が生まれ、これが現在の歌舞伎の姿に発展することになるのです。
阿国のその後
このように出雲阿国は日本の芸能史に大きな影響を与えた重要な人物なのですが、阿国自身は1607(慶長12)年に江戸城で歌舞伎を上演したという記録はあるものの、それを最後に消息が途絶えてしまっています。一説には、晩年、出雲に戻り、尼になったとも言われていますが、それも定かではなく、亡くなった年代もよくわかっていません。
阿国は真の傾き者だった!
ところで、もしかするとこの阿国に関することかもしれない興味深い記録が、奈良・興福寺の塔頭、多聞院の院主・英俊(えいしゅん)が書いた『多聞院日記』に残されています。それは、1582(天正10)年に奈良の春日大社で幼い子ども2人が“ややこ踊り(幼い子どもの踊り)”を踊ったというものです。この幼い子どもというのが記述では、“加賀国八歳十一歳の童”となっているのですが、これを8歳の加賀、11歳の国という2人の名前と解釈するならば、阿国は幼き頃から既に踊りの名手だったと推測されるのです。
踊りや舞いというものは、本来、神に捧げるものだったと考えられていますが、阿国は踊りを芸能という形に昇華させ、その中で役柄を演じることで庶民に喜びを与えた、真の“傾き者”だったのです。
しかし、芸人という身分の阿国のお墓が、名門・細川家の菩提寺である高桐院にあるのは、やはり、謎です。(因みに、阿国の出身地とされる出雲にも阿国のお墓があります。)一緒の場所にお墓があるのは、阿国はガラシャ夫人と同時期に活躍した女性だからという説もあるようですが、阿国は謎多き女性だけに、ただそれだけの理由ではないよう気がします…。
高桐院:京都市北区紫野大徳寺73-1 TEL : 075-492-0068
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