京の七不思議 その16『南禅寺の七不思議』

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日本で最も格式の高い禅宗寺院

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南禅寺と言えば、石川五右衛門が歌舞伎の演目『楼門五三桐(さんもん ごさんのきり)』で三門に登り、京の都を見渡して、「絶景かな、絶景かな」と見得を切る場面が思い出されます。ただ、その舞台となった三門は、石川五右衛門だとされる人物が三条の河原で処刑された後に再建されているので、五右衛門が生きた時代には三門は存在せず、五右衛門に関わる話はあくまでも伝説に過ぎないようですが…。

南禅寺は1264(文永1)年に亀山法皇によって創建された臨済宗南禅寺派大本山の寺院です。今のような伽藍が完成したのは1305(嘉元3)年のことで、1385(至徳3)年に京都五山の別格として最上位に位置付けられ、日本の禅宗の寺院の中で最も高い格式を誇っています。

さて、4万坪とも言われる広大な南禅寺にはどのような七不思議があるのでしょうか? 今回は南禅寺にまつわる七不思議の話をしましょう。

南禅寺の七不思議とは!?

南禅寺の七不思議:その1「勅使門」

南禅寺を訪れるとき、まず最初にくぐる門は“中門(ちゅうもん)”ですが、その中門の左側を見ると、中門より風格のある門があります。この門が重要文化財に指定されている「勅使門(ちょくしもん)」です。

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勅使門を正面に見ると、門の前には蓮池があって石橋が架けられています。この蓮池は南禅寺の山号「瑞龍(ずいりゅう)」に因んで、「拳龍池(けんりゅうち)」と名付けられており、南禅寺の七不思議のひとつとして数えられる場合でもあるようです。広大な南禅寺には「南禅寺十景」と讃えられる10の景観があったとされ、その中で今も見ることができるひとつが、この拳龍池です。

禅寺では勅使門と大きな三門の間に池があることが一般的ですが、南禅寺では勅使門の手前にあり、これはとても珍しいことです。実は今は観光ルートから外れているために訪れる人もほとんどありませんが、この勅使門から西に600メートルほど離れた場所に南禅寺の総門があります。つまり、その総門と三門の間ということで、勅使門の手前に池が造られたのかもしれませんね。

勅使門は1613(慶長18)年に造られた御所の日御門(ひのごもん)を1641(寛永18)年に移築されたものです。閉ざされていて、通常は通ることはできませんが、近くで見ると桃山時代の建築物らしい華やかな装飾が多く施されているのがわかります。御所の建築物であったことを示す菊文の飾り金具や牡丹が刻まれた斬新なデザインの頭貫(かしらぬき)の木鼻(きばな)、蟇股(かえるまた)にある龍や麒麟(きりん)の彫刻など、様々な意匠が見るものの目を楽しませてくれます。

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南禅寺の七不思議:その2「三門」

寺院を訪れると、寺院の正面に建つ、構えが立派な門を最初に目にします。この門を三門、または山門と呼びますが、その謂れは、仏道において悟りの境地に達するためには、“空門”、“無相門”、“無作門”という3つの門を通らなければならないとされており、それを「三解脱門(さんげだつもん)」といい、略して“三門”としたのです。ただ、寺院によっては正面の門の他に東と西にも門があって、その3つの門を合わせて三門と呼ぶとする単純な理由である場合もあるようです。また、山門と呼ばれるのは、昔の寺院が山中にあった名残りとだとか…。このように謂れはいろいろとあるようですが、いずれにしても三門(山門)はその寺院の顔なのです。

天下の大泥棒、石川五右衛門が住みつき、京の都を眺めながら「絶景かな、絶景かな。春の眺めは価千金とは小さなたとえ。己の目には一目万両。はてうららかな眺めじゃ」と、うそぶいた南禅寺の三門。別名「天下竜門」とも呼ばれ、知恩院の三門、東本願寺の御影堂門とともに「京都三大門」のひとつに数えられ、また、知恩院の三門、久遠寺(山梨県)の三門とともに「日本三大門」のひとつとしても数えられている格式の高い門です。

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南禅寺は、応仁の乱から戦国時代にかけて幾度も戦禍に遭い、荒廃してしまいましたが、その復興に尽力したのが、城造りの名人と言われた戦国武将の藤堂高虎(とうどう たかとら)です。浅井氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏らに仕えた高虎は、築城技術に長けたことで知られ、篠山城、伊賀上野城、津城、宇和島城、今治城などを築城しました。その高虎が1628(寛永5)年に大坂夏の陣で亡くなった家来の菩提を弔うために寄進したのが、現在の三門です。

高さ22メートルの三門は決して高い建物ではなく、京都市内を一望するというわけにはいきませんが、石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と言葉を発して見得を切ったその姿を思い浮かべながら見る京都の街の風景には、またひと味違った趣があるかもしれません。

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南禅寺の七不思議:その3「石灯籠」

三門の前に立つと、その大きさに圧倒されますが、その三門の右前にはこれまた巨大な石灯籠が置かれています。その高さは6メートルほどもあり、大きさでは日本有数で、日本三大灯籠のひとつとされています。

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この石灯籠を寄進したのは、安土桃山時代から江戸時代にかけて生きた佐久間勝之(さくま かつゆき)という武将です。織田信長に仕えていた佐久間盛次の四男として生まれた勝之は、父の死後、北条氏に仕えていましたが、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされたため、暫く身を隠しました。その後、秀吉に許された勝之は、1598(慶長3)年に秀吉が死去すると、徳川家康に取り入り、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いや1615(慶長20)年の大坂夏の陣に参戦し、その戦功によって信濃長沼藩の初代藩主になりました。佐久間勝之は武士として才覚のある有能な人物だったようです。

ところで、勝之は、この南禅寺の石灯籠の他に、上野東照宮(東京都台東区)の「おばけ灯籠」、そして熱田神宮(愛知県名古屋市)の「佐久間灯籠」を寄進しており、これら3体の灯籠は「日本三大灯籠」と呼ばれていますが、「おばけ灯籠」は6.8メートル、「佐久間灯籠」は8メートルと、どれも巨大な灯籠ばかり。勝之はどうもその“大きさ”に拘ったようですが、この石灯籠に関して言えば、南禅寺の巨大な三門が勝之と同じ時代に生きた武将・藤堂高虎(とうどう たかとら)により寄進されたことに対する対抗意識だったのかもしれません。もしそうだとするならば、佐久間勝之という人物はかなりの負けず嫌いの性格の持ち主だったと言えそうですね。

南禅寺の七不思議:その4「方丈」

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南禅寺の伽藍はなだらかな山の斜面に建てられており、その斜面を登るように三門から法堂(はっとう)へと続きます。そして、その法堂の奥に位置する建物が方丈なのですが、南禅寺の方丈は他の禅寺では見られない変わった形をしています。というのは、まったく違う別々の2つの建物を組み合わせて、1つの建物にし、それが方丈となっているのです。2つの建物のうち表側にあたる大きな建物が「大方丈(おおほうじょう)」で、その大方丈の裏側に接続された形で「小方丈(こほうじょう)」と呼ばれる建物が建っています。

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大方丈は桃山時代の1586(天正14)年に造られた、京都御所の正親町院御所(おおぎまちいんごしょ)の宸殿を、徳川家康のブレーンであり、南禅寺の第270世住職でもあった臨済宗の僧侶・以心崇伝(いしん すうでん)の働きかけで、南禅寺に1611(慶長16)年に移築されたものだと言われています。また、小方丈は1624~1644年の寛永年間に建てられた伏見城の遺構である小書院を1652(承応1)年に移築したものとされています。

方丈は本来、住持(寺を管理する僧、住職)の住居であって、南側の3室が客間、北側の3室が住持の私室の計6室で構成されるのが基本ですが、大方丈は9室で構成されていて、天井は二重折上小組格天井(にじゅうおりあげこぐみごうてんじょう)という手の込んだ造りに、そして、左甚五郎の作とされる広縁の欄間彫刻、蔀戸(しとみど:窓の元祖)など、建物の随所に御所の建物であったことを示す宮廷建築の特徴を見ることができます。そして、内部は安土桃山時代の絵師・狩野永徳(かのう えいとく)と狩野元信(かのう もとのぶ)によって描かれたとされる124面もの障壁画で飾られています。

小方丈は基本の6室で構成されていますが、内部には江戸時代初期の絵師・狩野探幽(かのう たんゆう)が描いたと伝わる「群虎図(ぐんこず)」(障壁画40面)があります。

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どうして南禅寺の方丈は大方丈と小方丈の2つの建物があるのか、そして、大方丈の背後に小方丈がL字型に接続され、増築したように一体化させたその理由は? 文化庁の記録では、小方丈は背面切妻造りとあるのに、実際は入母屋造りになっているなど、極めて格の高い様式の大方丈と小方丈には、不可解な謎が多く隠されているようです。

南禅寺の七不思議:その5「方丈庭園:虎の子渡し」

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大方丈の南側に広がる白砂が敷かれた細長い矩形の庭。江戸時代初期の代表的な枯山水庭園として、国の名勝に指定されている方丈庭園は、作庭の名手、小堀遠州(こぼり えんしゅう)の作と伝えられていますが、白砂と築地壁に面して置かれた大小6つの石が見事なバランスのこの庭は、その様を川を渡る虎の親子に見立て、中国の故事に倣って「虎の子渡しの庭」と呼ばれています。その中国の故事とは…。

母虎とその3匹の子虎は川の対岸に渡ろうとしていました。この3匹の子虎のうちの1匹はとても獰猛で、母虎が注意して見ていないと、他の2匹を食い殺してしまう恐れがあります。しかし、対岸へは一匹ずつしか連れて行けません。2匹が食べられてしまうことなく、無事に3匹を対岸に渡すにはどうすれば良いかと母虎は考えました。そして、名案を思い付いたのです。

まず、獰猛な子虎を連れて川を渡りました。そして、母虎だけ戻って、次の1匹を連れて渡りました。対岸に着いたら、獰猛な子虎を連れて再び戻り、獰猛な子虎を残して、もう1匹の子虎を連れて渡りました。最後に母虎だけが戻って、獰猛な子虎を連れて渡ったのです。これで、母虎と3匹の子虎は無事に川を渡ることが出来たのでした。

この故事には、どのような子であっても親は愛情を均しく注がなければならないという教訓が込められています。小堀遠州は、この故事を知った上で作庭したかどうかはわかりませんが、この故事を思い浮かべながら庭を眺めると優しい気持ちになります。

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ところで、世界文化遺産に指定されている龍安寺の石庭も「虎の子渡しの庭」と呼ばれています。そのことから、南禅寺の方丈庭園と龍安寺の石庭はよく対比され、競い合う作品とされることがあるようです。南禅寺は臨済宗南禅寺派、龍安寺は臨済宗妙心寺派。どちらも禅宗のお寺ですから、そういうことは自然とあることでしょうね。龍安寺の石庭の作者は不明なのですが、もしかすると、小堀遠州だったりして…。

南禅寺の七不思議:その6「水路閣」

境内の奥へ進むと、レトロな赤煉瓦のアーチ状の建造物が見えてきます。これが「水路閣(すいろかく)」です。歴史ある木造建築の伽藍が建ち並ぶ中に、西洋風の赤い煉瓦造りの橋脚は違和感を感じるように思われるかもしれませんが、これが実際に見ると不思議と周辺の雰囲気とマッチし、風景の中に溶け込んでいるのです。

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水路閣は琵琶湖から京都市内に向けて引かれた水路「琵琶湖疎水(びわこそすい)」が通る、全長約93m、幅約4m、高さ約14mの水道橋で、今も毎秒2トンもの水が流れ、京都市民の日々の生活を潤しています。

明治維新後、東京遷都のために京都の街は衰退の途へ進んでいました。そんな折りに京都の街を活性化させるべく、一大プロジェクトが立ち上げられたのです。それは琵琶湖の水を京都の街に利用して、産業を振興させるというものでした。これを実現させたのが、当時の京都府知事・北垣国道でした。北垣はこの国家プロジェクトの主任技師として工部大学(後に東京大学に統合)の学生だった、僅か21歳の若者、田辺朔朗(たなべ さくろう)に白羽の矢を立てたのです。

そして、驚くことがもうひとつ。明治維新間もない頃だった日本には、まだ近代的な技術は入っておらず、大規模な工事を行う場合は、外国人技師を招くのが当たり前でしたが、なんとこの琵琶湖疎水を造る工事はすべて日本人の手だけで行われたのです。

全長2,436mに及ぶトンネルは、当時のトンネル工事としては最長で、朔朗は日本のトンネル工事としては初めてシャフトと呼ばれる竪坑を採用するなど、考えられる最新技術を惜しまなく使い、幾度の難関に打ち勝ち、起工式からおよそ5年後の1890(明治23)年4月9日に、ついに琵琶湖疎水は完成したのです。

琵琶湖疎水が京都にもたらしたものの中で、特筆すべきものは“水力発電”の導入です。蹴上発電所が建設され、1891(明治24)年に運転を開始。疎水から生まれた電気は、京都の街に灯りを灯し、日本初の路面電車を走らせ、京都の近代化へと大きな原動力になりました。蹴上発電所は開業から100年以上経った今でも、京都の街と人々に電気を送り続けています。

煉瓦造の水路閣も、朔朗の設計によるものだそうです。田辺朔朗という若者の偉業は、これからも京都の街を潤い続けることでしょう。

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南禅寺の七不思議:その7「曹源池(そうげんち)」

水路閣の奥にある石段を登ると、南禅寺の別院、南禅院があります。南禅寺が建立される以前、この地には後嵯峨天皇の息子・亀山天皇が愛したとされる離宮「禅林寺殿(ぜんりんじどの)」が建っていました。

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禅林寺殿は“上の宮”と“下の宮”に分かれていて、亀山天皇は“上の宮”に持仏堂を造り、1289(正応2)年に出家して法皇となり、それと共に禅林寺殿は“南禅院と呼ばれるようになったのです。「南禅寺」という寺名はこの名前をもとに付けられたこともあって、南禅院は“南禅寺発祥の地”とも言えるのです。

南禅院には「曹源池(そうげんち)」と呼ばれる美しい庭園があります。瓢箪のような形をした池を中心に造られた庭園は、亀山法皇自らが心血を注いで作庭し、それを作庭家でもあった高僧の夢窓疎石(むそう そせき)が手を加えて完成させたと言われています。

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庭園の名前に付けられている“曹源”は、禅そのものの根源という意味で用いられる「曹源一滴水」という禅語に由来しています。この禅語の意味は一滴の水が大河になる可能性がある、つまり、何事においても粗雑に扱うことをせず、無駄にするなということなのだそうです。

曹源池は東山三十六峰のひとつ南禅寺山を借景とした鎌倉時代の代表的な池泉回遊式庭園で、池の周りには吉野の桜や難波の葦、龍田の楓などが移植されたと言われ、今も春夏秋冬それぞれの彩りを楽しませてくれます。

ところで、曹源池は西芳寺(苔寺)、天龍寺と並んで「京都三名勝庭園」のひとつに数えられているのですが、その天龍寺の庭の名も南禅院と同じ“曹源池”です。作庭をした人物が同じ夢窓疎石だということなのかもしれませんが、普通ならばそれぞれに名称を付けるところですが、敢えて同じ名称にしたことには何か意味があってのことでしょうか。不思議なことですね…。

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南禅寺:京都市左京区南禅寺福地町 TEL : 075-771-0365

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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